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プロフィール

現場実践に取り組んでいた頃の写真です。
◇このホームページを運営している八巻正治(やまき まさはる)です。生育したのはオホーツク海近くの北海道網走郡美幌町という、豊かな自然に包まれた、とてもステキな田舎街です。

◇大学卒業後は直ちに肢体不自由児の臨床現場に入り、そこで出会った子どもたちから人間としての真の価値や、在り方を深く学びました。しかし激しい業務のために体調が維持できず、やむなく職を辞し、大学院での学びを経て、これまで6つの大学(私立5校・国立1校)で勤務をしてきました。すべて公募による採用でした。

◇大学における学習歴としては、体育学士文学士文学士学士(福祉経営学)文学修士の卒業・修了証書を得ています。なお、博士後期課程でも学びましたが、非力さゆえに修了できず、単位取得満期退学となりました。さらには通信課程で神学校での学びも重ねました。なお、この学校は、わが国の教育法令上に基づく教育機関ではありません。また、ソーシャルワーカーとしては、通信教育の学びによって受験資格を得て『精神保健福祉士』、および『社会福祉士』の資格を取得しました。同じく日本産業カウンセラー協会の認定資格である『産業カウンセラー』資格も有しています。その他、中・高の教員免許状(保健体育)に加えて、養護学校の教員免許状や衛生管理者免許を保有しています。

◇在職中に新増設を経験しなかった人たちは判定審査を受ける必要はないのですが、私の場合は、それぞれ異なる大学に勤務をしていた時に、研究科・学部・学科の新増設があった関係で、これまで計5度にわたる文科省の教員資格判定審査を受けました。判定審査を経験された人はお分かりのことと思いますが、詳細なる申請書類に基づく審査は厳しく、非力な私はその都度、とても緊張しました。その結果、幸いにして「学部教授」、および「大学院・Mマル合教授(修士論文指導適格教授)」としての(職位・科目適合)審査をパスしました。なお私の場合は、学内的には33歳で専任講師として勤務を開始し、34歳で助教授(当時の職名)、40歳で教授に昇任しました。但し、昇任・昇格の学内基準は各大学によって異なるため、単純な比較はできません。

◇1992年8月から1年間、ニュージーランド(ハミルトン市)にある、国立ワイカト大学の訪問教授(Visiting Professor)として、特別支援教育、および知的制約状態を有する人たちの福祉支援について研究活動を展開しました。さらには、2015年4月から1年間、オーストラリア(メルボルン市)にある、王立メルボルン工科大学(RMIT大学)訪問教授(Visiting Professor)として、クリニカル・ソーシャルワークに関する研究活動を行いました。

◇ごく常識的な内容ですが、『学習支援者としてのガイドライン』を設定し、可能な限りにおいて、このガイドラインに基づいた支援活動を行っています。

◇私が研究上のメインテーマとして位置づけているのがソーシャル・インクルージョン(Social Inclusion)研究です。より具体的にはコミュニティ・インクルージョンです。私の表現をもって説明をするならば、ソーシャル・インクルージョンとは「すべての人が、その人なりに尊重され、キラキラと光り輝きつつ、その人なりの最善の在り方を目指すことが可能となる社会づくり」を意味します。

◇インクルーシヴ社会構築の前提としては、人間を表面的(外面的)な能力を以て価値づけようとする『価値愛』ではなく、「その存在そのものに対して絶対的な価値を見いだそう」とするところの『絶対愛』に立脚した人間理解が必要であると私は考えています。さらには、個々人の相違性や特性を相互に受容し合い、是認したうえでの穏健なる社会変革をも巻き込んだホリスティック(holistic)な社会の形成こそがインクルーシヴ社会構築にとって重要、かつ必要不可欠なまなざしと考えています。私の場合、それを南半球に位置しているニュージーランド(NZ)との関連で学びを進めてきています。1年間の在外研究期間を含め、これまでNZへは計17回の訪問回数を数えました。通算すると2年半あまりの滞在日数となります。オーストラリア(AU)での滞在と併せると、約3年半になります。

◇1987年に「非核法」を制定し、「核を造らず・持たず・持ち込ませず」の、原発によらないポリシーを堅持しているニュージーランドは、すぐれた福祉国家であり、かつ行財政改革の先進国でもあります。また、同時にすぐれた多民族・多文化国家でもあります。多民族・多文化国家として成熟の度を増し加えつつあるニュージーランドでは、先住民族であるマオリ民族との共存共栄をめざしており、それはすなわち、わが国におけるアイヌ問題をとらえるうえで、きわめて有益と判断されます。なお、ニュージーランドの公用語は英語とマオリ語(さらには手話も公用語です)のため、同国の正式名称は『アオテアロア/ニュージーランド(Aotearoa/New Zealand)』です。

ウェリントンにある『IHC』オフィスにて ウェリントンのビーハイブ
ウェリントンにある知的制約者の権利擁護組織の資料室 ウェリントンのビーハイブ(左)と国会議事堂(右)

◇訪問教授として国立ワイカト大学で在外研究に従事しながらニュージーランドについての学びを深めるにつれて、この国が有する多文化のまなざしを、私が生育した美幌町に紹介したい、との篤き想いが与えられました。そこで、ワイカト大学のあるハミルトン市に隣接しているケンブリッジに対して姉妹都市提携を働きかけました。「The Town of Trees 」と称され、「美しくて清楚な街」と表現されることの多いケンブリッジは、街の美しさと共に、こころ優しい人びとが住むニュージーランドの田舎町です。

◇さまざまな困難がありましたが、多くの方々の尽力の結果、ワイパ地区・ケンブリッジと、私の故郷(ふるさと)である北海道網走郡美幌町との間で姉妹都市提携の実現に至りました。そのことについては『姉妹都市提携への歩み』や、私がケンブリッジ地域評議会に招かれて行った姉妹都市提携のためのスピーチを、お読みください。なお、ケンブリッジ&美幌町、それぞれの自治体名をクリックすると姉妹都市提携に関する記事を読むことができます。さらには姉妹都市提携調印式の際に作成された首長による挨拶文も、お読みくださると感謝です。

◇ただ、多民族・多文化国家であるニュージーランドの場合は、そもそも国際交流の概念が、わが国の場合とは異なるため、交流のための予算措置が不充分でした。そのため、美幌との交流のために活用してもらう目的で、13年間勤務をした四国学院大学から公募採用で梅花女子大学に転任をした際に四国学院大学から得た退職金の全額を献げ、それを原資として『ラブリー・ファンド』という交流基金を設立しました。ニュージーランドの場合、年利率で5%以上の利息がつきますが、その利息を活用して相互交流を図ろうと考えたのです。

◇幸い、ケンブリッジ側の関係者たちによってこの基金が有効に活用され、美幌町との間で定期的な相互交流が展開されていることを深く感謝しています。なお、このことについては『オセアニア旅日記』にも書き述べてあります(「ケンブリッジ」「マーレィ」「ラブリー・ファンド」の項目))。また、基金の運用状況については、基金管理者の一人であるウェンディからの報告文書を、お読みください。だれからも依頼されたわけではなく、私ひとりの「小さな夢」からスタートしたビジョンが、多くの関係者たちの尽力を得て、こうして豊かな結実をみていることを心から感謝しています。

ケンブリッジの友人たち(手前左がウェンディ) ワイパ地区の首長や議員たちと
ケンブリッジの友人たち(手前左がウェンディ) ワイパ地区の首長や議員たちと

◇アイコンをクリックすると、2012年にケンブリッジの人たちが美幌町を訪問した時に行われたアイヌの人びととの文化交流の画像や、それに関連した新聞記事を見ることができます。   

   
※以下の文章は、以前、ショートエッセイとして書いたものの一部です。そして、これが私自身の生きるうえでの基本的なまなざし(と言うよりも、日々、反省の繰り返し)でもあるのです。  
◇私はあるとき作家の三浦綾子さんが書かれた『塩狩峠』について語らせていただいたことがありました。この小説は実話をもとにした小説ですが、その中で、主人公である信夫(実名は長野政雄という人です)が路傍伝道でキリスト教の話を聞き、その後、その伝道者の家で「私は本当にイエス・キリストが神の子であること信じます・・」と告白した箇所があります。その時、その伝道者は信夫に向かってこう言ったのです(以下の文章は、思い出しながら書いていますので、表現は正確ではありません)。「それでは、あなたがイエス・キリストを十字架につけたということを信じますか?」 それに対して信夫は、「とんでもない! それは2000年前の出来事でしょう? 僕はイエス・キリストを十字架につけた覚えなどありません!」と答えたのでした。するとその伝道者は、「それでは、あなたとイエス・キリストとは何の関係もありません・・」そう言ったのです。すなわちイエス・キリストを十字架につけたのは、何よりもこの自分自身なのだ、ということなのです。つまりは、そうした認識においてこそ、初めてイエス・キリストと自分とが時空を超えて一体化することになるのです。

◇私はこのエピソードをお語りしながら、自分自身のこれまでの遅々とした歩みの数々を想い、思わず胸が詰まってしまい、言葉が途切れてしまいました。私がキリスト教の洗礼を受けたのは大学四年生の時でしたから、もう随分と前のことになるのですが、これまでのモタモタとした歩みの中で、神さまがどれだけこの自分に良くしてくださったのか、といったことを思い起こす度に、今でも胸が熱くなってしまうのです。まさに主イエス・キリストは、時空を超えて私の中に存在し、今も生き続けておられるのです。

『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』(第2コリント 5:17) 聖書にはこのように記されてあります。『イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。』(ヘブル書 13:8) 聖書にはこのようにも書かれています。

◇私はこれまでの自分自身の歩みを静かに振り返るとき、謙遜でも何でもなく、誇るべきものが本当に何もないことを深く感じます。しかしこのような乏しい自分であってでさえも、神さまがその時々において確かに護ってくださり、あるいは必要以上にこの自分を用いてくださったことを強く覚え、感謝の想いで満ち溢れるのです。


『心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。』(マタイによる福音書 第5章3節)

◇かつて、ニュージーランドでの在外研究を終え、1週間ほど帰国した後、今度は2ヵ月間の予定でデンマークに出かけることになりました。短期間の内に南半球の端から北半球の端まで移動したことになります。

◇デンマークの聖書学校の寮に滞在しながら現地の福祉事情を体験する日々の中で、どうしても聖地イスラエルに行ってみたくなりました。そこで、リュックサック一つでコペンハーゲン発の安いチャーター便を利用して、2週間のイスラエル旅行に出かけることにしました。

◇イスラエル旅行の目的はひとつでした。それは主イエス様が『心の貧しき者は幸いなり・・』で始まる「山上の垂訓」で、人々に「いのちのことば」を語られたガリラヤ湖畔にどうしても行ってみたいと思ったからでした。

◇エルサレムからバスで数時間揺られながらガリラヤ湖のあるティベリアに辿り着き、念願叶ってその場所に佇むことができた私は、沸き上がる感動で胸がいっぱいになりました。

◇聖書の記事によると、ときとして1万人を超える人々が主イエス様のお言葉を聴いたことが記されています。「どうやって数多くの人々に語られたのだろう?」そのことが、かねてよりの疑問でした。しかし丘の上からガリラヤ湖に吹く風に乗せて、主イエス様の御声が人々に届くことを自らも体感することができ、深い感動を覚えました。そして、そこで私もまた、主イエス様の御声を聴くことができたような気がしたのでした。

◇主イエス様のお言葉は、私たちがそれを謙遜なまなざしをもって主体的に聴こうとしたとき、かすかなれども、一人ひとりの心底に、深く、そして明確に伝わってきます。そして私もまた、主イエス様の御声、すなわち「いのちの御言葉」に聴き従った結果、こうした、まことに弱き、乏しき自分でさえも、暗き淵より引き上げ、活かし、喜びで満たしていただけたのです。まことにもって、感謝のきわみです。

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