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※このエッセイは、私が1992年8月〜1993年7月まで、在外研究でニュージーランド(ハミルトン市)に滞在していた際に、私の故郷の新聞紙に連載させていただいたものです。それに加えて、帰国後、直ちに2ヶ月間、欧州・中東・英国に滞在した時に寄稿した文章も加えてみました。お読みいただけると、お分かりのように、連載の途中から、ニュージーランド(ケンブリッジ)との姉妹都市提携への夢を抱き始め、文章には、そうした自分自身の篤き想いがにじみ出ています。

「羊の国から」(1)
 私は今、「羊の国」ニュージーランドへ来ています。そして7月から、来年の7月末までこの国に滞在をすることになっています。私が勤務している大学では、毎年数名が一年間の研究休暇を与えられることになっていますが、今年は私がその順番になり、それを利用して在外研究に出かけた、といったわけです。この国へは数年前にも一度訪問をしたことがありました。そうして今回の訪問となったわけです。今回、こうして故郷(ふるさと)の新聞に連載ができることをとても嬉しく思っています。

 私が滞在をしている場所は、ニュージーランド最大の都市であるオークランドから南に130キロほど離れたところにあるハミルトンという、ちょうど北見市と同じような規模の静かで美しい街です。現在、私はそこにあるワイカト大学という大学の訪問教授として滞在をしています。この一年間、共同研究者(というより指導教授に近い)であるミッチェル博士と一緒に『日本とニュージーランドにおける特別教育と福祉』といったテーマで比較共同研究を行なうことになっています。着いたとたん、もうさっそくにビッシリと学校や施設訪問、それに特別講義等のスケジュール表を渡されてしまい、すでに今回の研究休暇の「休暇」の意味が薄れかかってきています。

 さてこの数年で、この国への旅行者が急増しています。しかしそれでもヨーロッパやアメリカなどと較べてまだ旅行者の数が少なく、そのため航空運賃も決して安くありません。現在、日本からの正規の片道運賃は27万円ほどです。割引運賃(ディスカウント・チケット)もあり、これは往復で18万円ほどですが、香港・クアラルンプール・シンガポールで乗り換えですし、またあれこれ面倒な制約がつきます。そこで私はパック旅行を利用することにしました。そして帰りの飛行機をキャンセルするのです。ちなみに、私が調べた最も安いパック旅行は、オークランド滞在六日間で、何と12万円でした。もちろん、そこには往復の運賃とホテル代が含まれています。しかし私は他のところへも行きたかったため、20万円のパック旅行に参加しました。こうしたところが国外旅行の際の航空運賃の不思議なシステムなのです。そんなことで、私は念願の「羊の国」へとやってきたというわけです。


「羊の国から」(2)
 ニュージーランドは日本の約70%の面積を有する国です。しかし人口はわずかに350万人ほどです。ですから、いったん郊外へ出ると、もうそこは完全な酪農田園風景が広がっています。あちこちに数多くの羊や牛、それに鹿が放牧されています。国の形は日本とよく似ており、北島と南島とに分かれています。北島には最大の都市であるオークランド、それに首都であるウェリントン、マオリ民族の発祥の地であるロトルア、それにマス釣りで知られるタウポなどがあります。私の住んでいるハミルトンも北島です。

 南島(すなわち南極に近い方)には、最大の都市(といっても人口が30万人ほど)のクライストチャーチ、ミルフォードサウンドへの観光で知られるクィーンズタウン(女王が住む街にふさわしい、との意味でこの名前がつけられたそうです)、古い都市であるダニーデンなどがあります。クライストチャーチとクィーンズタウンとは、この国を代表する観光地なので、どこへ行っても日本人観光客に出合います。私はクィーンズタウンで、コロネットピークという、この国を代表するスキー場で滑ってみたのですが、まあ、ここも日本人がいっぱいでした。ハワイもそうでしたが、ここでも日本語での表示が多く、また店員の人も日本人が数多くいます。こうした風景は、何だかひどく疲れを覚えます。

 さて、ご承知かと思いますが、ニュージーランドは南半球ですので、季節が日本とは逆になります。この文章を書いているのが七月下旬ですので真冬、すなわちこちらでは「ウインター」という表現になります。ですから、お正月が「サマー」すなわち夏ということです。赤道直下のシンガポールやハワイなどで「ホワイトクリスマス」の歌を聞いたときも何だか妙な気分でしたが、この国でも多分そんな思いをすることでしょう。現在、不況のせいで、あちこちでエネルギー・カットが行なわれています。

 この国最大の都市オークランド(人口90万)はもう全くの都会で、ここも語学研修のために滞在する日本人の若者たちでいっぱいです。まさに「豊かなる国ニッポン」そのものです。ここにはオークランド大学という著名な大学があるのですが、私はここへの留学を最初から考えてはいませんでした。前に一度訪問したときにも、何だか東京の大学のような喧騒を感じてしまって疲れたのです。田舎育ちのせいかもしれません・・


「羊の国から」(3)
 ラグビーの「オールブラックス」に代表されるように、ニュージーランドはとにかくアウトドア・スポーツの盛んな国で、街のあちこちでジョギングをする姿が見られます。クリケットやゴルフのような穏やかなスポーツならイザ知らず、なかには常識では考えられないような冒険もあります。渓流をジェットボートで猛スピードで走り抜ける程度なら理解できます。私もクィーンズタウンで乗りましたが、爽快そのものでした。そのなかのひとつに最近、日本でも紹介され始めた実に無謀な冒険に「バンジー・ジャンプ」というのがあります。川の谷間にかけられた高さ40〜80メートルの橋の上から両足をゴムロープで縛って飛び降りるのです。しかも、一つの場所で一日に100人もの人たちがそれに挑戦をしています。そしてこのことのために、わざわざ日本からやってくる若者たちが数多くいるのです。そうした光景を見ながら、実は私も挑戦をしてみたい衝動に駆られたものでした。仕事で来ていさえしなければ、絶対に挑戦をしてみたかったです。

 ところで、この国の天候をさして「一日のなかで四季がある」と聞かされていましたが、まさにその通りでした。すなわち朝(春)、昼(夏)、午後(秋)、夜(冬)ということです。それに雨かと思うと、とたんに晴れてきたり、といったように、実に変わりやすい天気です。この国には英国からの移住者たちが多くいるのですが、この国の気候も英国と同じような感じなのです。最近では紫外線の影響による皮膚ガンのことが取り上げられていますが、日中はさもありなん、と思わせるほどの強い日差しです。

 さて私が住んでいる家は、大学の学生寮の管理人サンが住んでいた家で、とても広くて快適です。まるで私が住むために改修をしてくれたのかと思えるほどに美しく内装が整えられており、とても感動しました。日当たりの良いベランダからは、芝生の緑が美しい、広大な大学のキャンパス(構内)がよく見えます。私は毎朝、そのキャンパスを横切って研究室へと向かいます。ノンビリ歩くと10分はかかります。途中の美しい池には水鳥がゆったりと泳いでいます。こうして生活をしていると、何だか職場をただ単に日本からニュージーランドへ移動してきただけ、といった錯覚に陥ります。この文章も研究室で綴っています。細々とした雑務の日々から開放されて、実に快適な生活です。

「羊の国から」(4)
 この国の第一次産業は今でも農業と牧畜業が中心です。そしてそれらの輸出が盛んです。逆に、工業化はまだ充分ではありません。というより、多くを輸入品に依存しています。ですから、電気製品でもニュージーランド産を見つけるのは困難です。車はほとんどが日本車です。しかも日本で買うより数倍高いのです。ですから中古車の売買が盛んです。私もそれで車を購入しました。衣料品も高めです。しかし、逆に食料品は安いのです。米もオーストラリア産のが大量に出回っています。値段は日本米の半額程度です。しかも味の方は「キララ」ほどではないですが、とても美味しいのです。農産物自由化反対のスローガンは道産子の一人として理解できますが、こうした現実を見せられると、正直そのことの論理展開がとても苦しいのではないか、などと思わされます。

 スーパーやショッピングセンターなどへ行って、あれこれ調べていても、全体的に品物の種類が少なく、しかも高いのです。いたしかたありません。何せ、350万人程度の人口で国家を運営しているのですから、日本と比較すること自体が無理なのです。ちなみに、この国には大学は7つ(全て国立)です。また教員養成は、かつての師範学校のようなシステムで行なわれています。しかし私が滞在しているワイカト大学では同じ敷地に教育カレッジがあり、来年から大学の教育学科と合併する計画があります。ここのところは説明が困難ですので、別の機会にしたいと思います。

 さて、この国にはちょうどアイヌ民族と同じような、マオリ族というすばらしい文化を有する先住民族が存在しています。人口は10%ほどです。アイヌの人たちと同じく、純粋なマオリ族の数は少なくなってきています。私の知るかぎり、マオリ民族に対しての民族差別は存在しません。むしろ多くの人が、マオリ文化はこの国の誇りとさえ思っているようです。マオリ語の学習も盛んです。キャンパス内にもマオリの人や、フィジー、トンガ、その他のポリネシア系の学生たちが数多くいます。それがごく日常的な光景です。そうです。この国は実に多民族国家なのです。私が留学先にこの国を選んだのはそうした理由からなのです。それでも最近では香港の中国への返還問題の影響で、この国への移住希望者が多く、次第に移住を制限するようになってきているとの話です。


「羊の国から」(5)
 前回、ニュージーランドにおける多民族国家の姿について述べましたが、いっぽう単一民族国家の意識が強い日本では、そのことに起因するさまざまな差別が日常的に存在しています。例えば指紋押捺問題を中心とした民族差別、私の領域であるところの、体や知能に機能的制限を強く有する人たちに対する差別問題、セクシュアル・ハラスメントに代表される女性差別問題、それに部落差別問題などです。特に、最後の部落差別問題は、道産子の人たちにはその差別の実態を実感としてイメージするのが困難かと思われます。

 一例を述べますと、例えば香川県で私が住んでいる場所の近くに被差別部落と称される集落があります。私は毎朝、そこを通って通勤をしています。私が四国学院大学へ赴任した当時(1984年)のことでした。何人もの人から「あの近くの道路を通るのは避けたほうが良いですョ・・」などと忠告されたものでした。私は香川の道路は細いので、きっとそのせいだとばかり思っていました(じっさい本当に狭いのです)。しかし、やがてそれが被差別部落の周辺の道路を指すことが分かってきました。そこで生活している人たちは、たまたま自分がその地域で生まれ育ったといっただけで、学習・就職・結婚等で、さまざまな激しい差別を受け続けるのです。それはそれはヒドイものです。

 こうした差別問題は、実は多民族国家でも同様に存在しています。それは例えば、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)問題や、ロサンゼルスで起こった黒人暴動事件でもその問題の深さが明らかになったことと思われます。これはあくまでも私個人の考えなのですが、アメリカ合衆国は今だにベトナムショック(大国がアジアの小国に敗けた、といった衝撃)から完全には立直っていないのではないかと思えるのです。そのショックが20年あまりも続き、先の湾岸戦争で他の諸国を巻き込みながら半ば強引に武力行使に突入し、地上戦開始後わずか百時間あまりで完全勝利を宣言して、ベトナムショックを払拭しようと試みたのではないかと考えています。しかしこの程度で解決できるほどに「病巣」は軽くはなかったのです。それが先の黒人暴動事件の一因であったと思えるのです。すなわち、それほどまでに多民族国家が抱える問題は大きい、ということです。しかし、ニュージーランドではかなりうまくやっているらしい、というのが私の感触なのです。

「羊の国から」(6)
 連日の雨で少々気が滅入っていたところ、ようやく晴れ間が見えましたので、近くを車で走ってみました。すると、とてもステキな場所を見つけました。まるでメルヘンの世界へでも迷い込んだかのような牧歌的な風景が辺り一面に広がっていました。鮮やかな緑を敷き詰めたなかに羊がいて、丘があって、それに小川のせせらぎがありました。でも夕方になると、まるで台風でも来たかのようなものすごい風雨でした。少なくとも天候に関しては、ここニュージーランドは不思議な国です。春先はいつもこうだそうです。

 さて先日、はるばる送られてきた美幌新聞をみていますと、女満別〜大阪間の直行便就航の記事が載っていました。10年前に東京直航便が就航したときも驚きでしたが、今回もまたまた驚きです。関西がグッと近くなりました。これまで修学旅行ではるばる訪れた古都(京都や奈良)に簡単に行けてしまうのです。実に便利になりました。年中、アチコチを動き回っている私にとって、国内交通が実に便利になってきたことを感じます。

 同じく情報に関しても、ご承知のように、現在ではパソコン通信やファクシミリ通信の活用で、全世界とリアルタイム(同時間)で交信が可能です。ちなみに、今回の私の留学のやりとりも、その多くをファクシミリ通信で行ないました。郵便だと返事をもらうのに二週間はかかるのが、これだとその日のうちに可能です。また国によっては、時差を活用すればもっと利用価値があります。著書や論文の執筆原稿も、最近ではフロッピーで送ります。300頁程度の本であれば、フロッピー1枚に収まります。そして印刷所との校正作業もファクシミリです。ですから本の制作が実にスピーディに、かつ安価にできるようになりました。学生の卒業論文も、現在ではそのほとんどがワープロで作成されています。そして保管はマイクロフィルムで行ないます。素晴らしい技術革新の時代です。

 これからの課題は、こうした田舎の風景と、近代社会とのバランスをどう調整(調和)させながら歩むべきか、ではないかと私は考えています。この国もかなりコンピューター(その多くが日本製)が普及しています。しかしそれ以上に、自然保護に対してかなりの力を注いでいます。その点、日本はどうやら選択を間違ったのかも知れません。素朴な自然のなかで羊の群れを眺めながら、私はフトそんなことを考えました。


「羊の国から」(7)
 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の関係で、インドネシアの特別教育を専門とする教育関係者の人たちと一緒に各地の「メインストリーミング」(一人ひとりの子どもが、その子なりに尊重される教育理念のこと)を目的とした特別教育の実際を見学していたときのことでした。ある日のことでした。「コンダクティヴ・エデュケーション」を行なっている「ユニット」(これは「学級」といった意味ではなく、指導が為されている場所を指す言葉です)を見学したことがありました。まさかこの国でこうした教育が行なわれているとは思いもしませんでした。私自身あまり詳しくは知らないのですが、これはハンガリーで為されている特別な教育方法の名称なのです。したがって、指導者はハンガリーから来ている人でした。

 あれこれ話し合いをしているときに別のスタックがやって来ました。すると途端にハンガリー語で話し出しました。そこで私はフト考えました。「ああ、ここにはニュージーランド人とインドネシア人と、ハンガリー人、それに自分がいるんだな」と・・ それが英語を媒介としながら脳性マヒ児の子どもの指導法について話し合っているのです。この国にメインストリーミングが根づく筈です。それに加えて、この国にはもう一つの公用語としてマオリ語があるのです。掲示物にはいつも英語とマオリ語の表示が為されています。大学のキャンパスでも、南太平洋諸国から来ている留学生たちの数の多さに驚かされます。肌の色から言語まで、さまざまな文化がごく日常的に交じり合っている姿は実に壮観です。単純に感動を覚えてしまいます。このように多民族国家の姿を当然のように見せられてしまうと、日本の文化の弱点、もしくは脆(モロ)さを強く感じます。

 おそらく日本人のなかには「日本は単一民族国家だ」などとひどい誤解をしている人たちが数多くいるはずです。すなわち、言語も一つ、肌の色も一つ、と・・ それゆえ日本は価値の統一化(固定化)がなされやすい土壌を有しているのです。いつも「人のふり見て、わがふり直せ」になりがちなのです。顔立ちや肌の色が異なるといっただけで、ジロジロと見るような風潮があります。同じように、体の機能が不自由であるとか、知恵が遅れているとかいっただけでジロジロなのです。悲しいことと思います。

「羊の国から」(8)
 欧米でもそうですが、この国でも最近では「禁煙」が徹底しています。自然保護に力を注いでいる国ですから、当然といえば当然です。街を歩いていても喫煙者は滅多に見かけませんし、タバコの自動販売機も見かけません。私のいるワイカト大学でも禁煙が徹底しています。教職員でタバコを吸う人を見かけたことはありませんし、建物のなかでタバコの煙の匂いを感じることはありません。これは街の建物にも共通していることです。唯一、学生ホールでタバコの匂いが多少する程度です。飛行機でも、国内線は当然のように全席が禁煙です。レストランでも先ず最初に「タバコを吸いますか?」と聞かれます。そうです、日本とは逆に喫煙席の数の方が少ないからです。

 言うまでもないことですが、喫煙は個人の嗜好に属することです。健康への影響を説いたとて、最終的には個人の責任で処理されるべきことがらに属します。問題は他者に対しての間接的な健康破壊への影響、および自然環境破壊への影響をどう判断するか、ということです。教育や福祉の分野では「ヒューマン・ライト」、すなわち「権利」という言葉がよく使われます。この国でも、しばしばこの言葉が出てきます。これは何も少数者やハンディキャップを有する人たちにのみ、有効な言葉ではありません。この国では、こうした発想を、広く自然環境破壊の分野まで含めようとしているのです。

 自然を大切にする人は、他者の権利も大切にする。このことは真実です。この国の自然保護への熱意が、すなわち少数者や弱者に対する配慮の〈まなざし〉ともなっていることを強く感じます。もうすでに、すべての公共の建物には必ず車イス用の通用スロープ(これを「ランプ」といいます)の設置が義務づけられています。

 と、この国はいい事ずくめのようですが、娯楽が少ない分、おしゃべり好きな人たちが多く、会話のスピードの早いこと! それにコワイのが車の運転です。制限速度が、市街地では50qで、市街地の外れが70q、そして郊外では何と100qです。しかもギリギリまで接近して走るのです。何よりもコワイのは、交通信号が少ないことです。私も車で道路を横切ろうとしたら、猛スピードで衝突されてしまいました。ブルブルの体験でした。レンタカーでこの国を旅行しようと計画している人は、充分にご注意ください!

「羊の国から」(9)
 先日、日本の文化を理解するために月に一度開かれているという会合に出席しました。教会のフロアーを借りての集会は、とても有意義なものでした。ここハミルトン市にはあまり日本人は多くいないと聞いていましたが、それでも何人かの日本人や、語学研修等で滞在している人たちとの交わりは、とても楽しいものでした。

 最近、日本でもニュージーランドの各都市と姉妹都市の関係を持つようになってきましたが、ここハミルトン市もすでに埼玉県の浦和市と姉妹都市関係を持っています。北海道でも小樽市とか苫小牧市はニュージーランドに姉妹都市を持っています。私が滞在しているワイカト地方の風景は、この地域が酪農を主体とした地域のためか、本当に美幌近郊の風景と類似しています。それにこの国の人々は、私の知るかぎり大変な親日家が多く、ホストファミリーとして日本人を迎えたことのある家庭が多くあります。この国では日本語は第一外国語です。オーストラリアもアメリカも、それにイギリスも言葉は皆、英語です。したがって、必然的に日本語が最も身近な外国語になるのです。日本に対する憧れと期待、それに高い関心を寄せる人たちが多くいることを感じます。

 北海道の人たちは他の地域に較べて、他の出身者を温かく迎える包容力があります。ちなみに、私の父親方の祖父母は仙台から、母親の祖父母は徳島からの移住者だったと聞いていました。それに先住民族であるアイヌの人たちもいます。実にニュージーランドと似ているのです。しかしこの国は、実に多民族国家です。肌の色も、髪の毛の色もさまざまです。そしてそれを当たり前のようにして受け入れています。しかし残念ながら、日本はそうした異文化を受け入れる〈まなざし〉が致命的なくらいに弱いのです。

 私は単なる物見遊山的なレベルではなく、日本の致命的な弱点を補う方法として、異文化体験を積極的に推し進めるべきだと考えています。欧米志向はもうそろそろ卒業して、この国の人々との深い交流がもっと推進されるべきだと強く考えています。美幌の街にいつもこの国の人たちが滞在をしているような、そんな光景が日常的になれるといいな、と思っているのです。これからの地方都市がめざすべきは、豊かな自然と国際交流だと私は確信しています。相手国としてはこの国がベストです。強くそう思っています。

「羊の国から」(10)
 私の専門は教育学と社会福祉学です。明治以降、前者はドイツとアメリカから、後者はイギリス、北欧、それにアメリカからの学問および実践の影響を強く受けてきました。それでも最近では教育学の方は無批判的に「移入」するのを避けるようになってきました。しかし社会福祉学の方は、相も変わらずの追従の姿勢を感じるのです。しかし言うまでもなく、日本は世界に冠たる教育立国です。同じく福祉の水準も、現在の個人税負担の割合から言えば世界最高のレベルに達しています。しかしそれにもかからわず、まるで欧米崇拝のごとく、相も変らず移入にいそしむ研究者たちが数多くいるのです。

 むろん他の国の良いところはドンドン取り入れるべきですし、日本の良い伝統はそのまま継承すべきです。確かに日本の誇る「教育立国」の現状は、俗にいうところの「輪切り・序列・選別教育」です。没個性化であり競争主義です。荒れる学校や不登校者が日常的です。ちなみに、私も高校は半分くらいしか行きませんでした。最初は網走向陽高校でした。しかし続かずに美幌高校へ転校しましたが、やはりダメでした。不登校生徒の「模範」のような悲惨な高校時代でした。日本の教育体制のひずみを身を以て体験しています。また福祉も平等ではありません。やはりここにも競争原理が働いています。高齢化現象でよく耳にするようになってきたところの「シルバー産業」を例にとるまでもなく、富める者が高福祉を享受することができる日本の現状です。弱者や少数者は常に切り捨てられることの多いわが国の福祉制度の現状です。

 この国(ニュージーランド)は国土面積は日本の70%もありながら、人口はわずかに四国四県と同じくらい(約350万人)です。ですから、日本では簡単に手に入るものでさえも、この国では容易に入手できないといった経験をよくします。この国の多くの人たちにとって、日本はきわめて成功した憧れの国と映っているようです。私自身、日本を離れるたびに、いつも日本ほど便利な国はないことを思わされます。しかし私がよく訪れる韓国にしてもそうですが、競争主義の日本がそれゆえにこそアッサリと切り捨ててきたものを実に大切にしていることを強く感じるのです。私はこの一年間で、この国からそうした〈福祉のまなざし〉を学びたいと思っているのです。


「羊の国から」(11)
 これからの地方都市がめざすべきものは豊かな自然と国際交流である、ということについてはすでに書いたことがありました。

 さて現在、私は三週間ほどこの大学に滞在する予定になっている、エジンバラ大学(スコットランド)のトンプソン博士と同じ研究室で毎日を過ごしています。博士の専攻は私と同じく特別教育です。そして博士の滞在中に、この大学(ワイカト大学)のミッチェル博士と共に、ニュージーランド、スコットランド、それに日本における特別教育の比較検討を行なう予定でいます。ニュージーランドの大学は、今は春休み中です。またスコットランドは日本と同じく夏休み中です。しかし研究者たちにとっては、学生の休暇中は自分たちの貴重な研究期間のようです。このトンプソン博士も、オーストラリアでの国際会議の帰路とはいえ、スコットランドから乗り換え時間も含めて30時間あまりもかけてこの国へやってくるのですから、まあ実に研究熱心です。

 私は以前、美幌町が例のネッシーの住む町との交流関係を結ぼうとした記事を本紙で興味深く読んだことがありました。偶然ですが、トンプソン博士のエジンバラ大学はネス湖の近くです。そこであるとき、私は博士との雑談のなかで、私の出身地である北海道の美幌町が姉妹関係を結ぼうとして成功しなかったらしいこと、しかし私自身はむしろニュージーランドと友好関係を結んだ方がよいと考えている、ということを伝えました。

 さて、昨日は久しぶりにとても良い天気でしたので、私の住むハミルトン市から80キロほど離れたところにあるワイトモ洞窟へ「世界の八不思議」と称される「ツチボタル」を見に行きました。この洞窟は、この国への観光ルートとして必ず含まれているような有名な観光ポイントのため、多くの日本人観光客がいました。そしてそのなかには、ハミルトン市と姉妹関係にある埼玉県の浦和市からの団体訪問者もいました。

 先日、熊本県から派遣されてきた人たちと話をしたときにも、ぜひこの国と友好都市関係を結びたい、と熱心に語っていました。ハミルトン市の近くはファームステイ(牧場滞在)がさかんです。そして清楚で美しい町がいくつもあります。もしかしたら、もうすでに日本のどこかの町が交渉中かもしれません。


「羊の国から」(12)
 自然環境保護と国際交流とは、それをひとことで言えば「薫(かお)り高き文化の保持および提供」ということです。そしてその効果は直ちには測定(評価)できないものです。言葉を換えると、短期的な見通しでは決してとらえきれないものです。優先されるべきは、先ず橋だ、道路だ、建物だ、減税だ、などといった主張のもとでは、これらはムダな投資として片付けられる可能性が高いものです。

 私の専門分野でその重要性を簡単に述べますと、例えばこれまでは体や知能に機能的制限を強く有しているような人に対しては、やはりこうした高い文化の提供はゼイタクとされてきた歴史があります。福祉施設でも、個室が保証されていたり、毎日入浴ができるような施設など、日本では今でもごく少数です。しかも入浴に際しては、例えば女性の入浴介助に男性職員が関わる、などといったケースはまさに日常的な光景なのです。「発達が遅れているからこそ、数多くのホンモノ体験を」「機能的制限を有しているからこそ、人権への細やかな配慮を」といった〈まなざし〉がどうして持てないのでしょうか?

 国際交流、すなわち異文化体験もこれと同じです。すなわち表面的にはムダな投資に近いものです。しかしこのムダ、つまり〈ゆとり〉こそが豊かなライフ・サイクル(人生設計)を送るうえで大切な〈まなざし〉なのです。例えばスポーツチームの場合でも、長期的な展望にたって若手育成にどれだけ力を入れたかが、やがて必ず良き結果として実るのと同じです。文化への投資とはそうしたものです。私の勤務している大学では国際交流に積極的に取り組んできています。そうしたなかで、私もこれまでしばしば韓国を訪れてきました。また何人もの韓国人留学生の身元保証人にもなってきました。指導学生たちを韓国へ連れても行きました。得るべきものが多くありました。

 「福祉は民間から」という言葉をご承知かもしれませんが、国際交流もこれと同じです。ですから民間レベルでドンドン推し進めるべきです。日本の弱点は、こうしたことがらがいつも官庁(役所)主導型で進められてきたことです。だから決断と実行とが多くの場合、現実の状況に適切に対応できないのです。むろんこれは、常にそこに複雑な(というより飽きるほどの)組織決定と予算配分との関係が伴うことによるのでしょうが。


「羊の国から」(13)
 これは完全な身びいき的な感覚から述べるのですが、内外を問わず、どこへ行っても、またどこへ住んでも美幌ほどステキなところはない、というのが変わりなき私の想いです。そう考える理由はさまざまですが、20数年来、年に一度は帰郷してきた自分にとっては、単なる望郷の念とは異なります。大学で学ぶために美幌を離れて以来、いつもこの町への帰郷のチャンスを願ってきました。道東地方は、そこに住む人たちが思う以上に内地の人にとっては憧れの地域です。「美幌峠の近くを車で走っていたらシカ(鹿)が見えたよ」といった程度のことでさえ、ロマンを感じてしまうらしいのです。

 この国(ニュージーランド)に日本からの観光客が増え続けている理由は、何よりも豊かな自然環境に触れるためであることは間違いありません。しかもほとんどが観光地化されてはいないのです。都会のアスファルトジャングルは人々の心をひどく荒(すさ)ませます。しかし豊かな自然は人々の心をほぐし、和(なご゙)ませるのです。例の『北の国から』の富良野だって、たしかに脚本やスタッフの卓越さはあるにしても、何よりも自然の美しさが多くの人々にロマンを感じさせるのではないでしょうか。しかし昨年秋に帰郷した際に、富良野へも立ち寄ってみましたが、美幌の美しさの方が勝っていると思いました。

 美幌は都会の亜流(真似)であっては決してなりません。高い文化の提供で特徴づけるべきです。ちょうど女満別がハイレベルの音楽で町全体を特徴づけようとしているように。また、当然ですが福祉や教育や医療も文化です。そして、その地域がこうした分野にどれほど力を注いでいるかが、文化水準をはかるうえでの重要な要素でもあるのです。なぜなら、これらの側面(福祉・教育・医療)は生産性、あるいは見返りが期待されない部分だからです。私は福祉や教育分野の研究者ですから行政には詳しくないのですが、町行政の中心に立つ人たちが、こうした行政実績につながらないような側面での仕事をどれだけ本気で行なえるかが問われるべきだと思うのです。根回しや行政手腕能力の有無ではなく、文化の理解こそが真に問われるべきなのです。美幌の場合、自然環境面での文化保持はおそらく何とかなると思います。福祉や教育や医療面も、どこかにポイントを絞ればかなりの水準を保てるはずです。そして私はそれに加えて国際交流をあげたいのです。

「羊の国から」(14)
 現在、英米語圏の国に住んでいて一番困ることは、当然といえばそうですが、言葉による意志の疎通の困難さです。世界の共通言語は今や英米語であることは、残念ながら認めざるを得ません。しかしだからと言って、一国の総理大臣が米国からの訪問者を迎えて英米語で話すなどといったことは、いかにも屈辱的な光景です。

 日本の研究者に求められる重要な資質のひとつに、いかに他国の言語をスムーズに運用できるか、があります。そうなると研究者はみな翻訳者になり、翻訳者はみな研究者になれるというおかしな理屈になってきてしまいます。しかしより重要なことは、他国の言語を持つ人たちと、いかにして真の意味での意志疎通がはかれるか、ということです。

 私はこの国へ来るまでは、多くの日本人が日常的にやはりそう感じているように、英米語コンプレックス(とりわけ聴く・話すといった部分での)というものがありました。そして生活や仕事をするなかで、事実関係は確かにそうであるとしても、本当の意味での相手との意志疎通、すなわちコミュニケーションとは、単なる機械的な言語運用能力の問題ではないことに気づいたのです。

 さて、この国の人々の日本語学習熱は相当なものです。かなりの高校生たちが学校で日本語を学習しています。農産物の輸出と観光客の受け入れとの主要な相手国が日本なのですから、日本に対する関心の高さは当然かもしれません。日本では多少なりとも英米語を使えるということが自慢になるようなおかしな風潮がありますが、この国では「自分の日本語を聞いてくれ」とばかりに話し掛けられることがよくあるのです。そして「どうしてあんな難しい言葉をマスターできるのか?」と聞いてくるのです。ひらがな・カタカナ・漢字、それに数多くの外来語が文章中に自在に交(混)じり、縦書き・横書きがあり、漢字には音読み・訓読みがあり、しかも数千は覚えなくてはならないなどと言うと、もう感嘆というか畏敬に近いまなざしで見られてしまうのです。

 そうした体験を積み重ねるにつれ、次第に自分が日々、相手との言語コミュニケーションで苦労しているのは努力と能力とが足りないだけだ、などと自らを責め、嘆いていたことによる無用なストレスが私のなかからス〜ッと消えてゆきました。

「羊の国から」(15)
 国際交流、すなわち異文化体験は、指紋押捺問題でも明らかになったごとく、とりわけ日本のような、ややもすると排他的な価値意識を持ちやすい国民にとっては非常に大切なな体験であろうと私は考えます。

 またこうした体験は、双方があくまでも対等な意識のうえに立って為されるべきものです。私は現在、ニュージーランドという実に魅力的な国に住んでいるために、この国の人たちとの国際交流を、と呼び掛けていますが、本当は全世界が相手とならなくてはならないのです。ところが現在、中南米や東南アジア、あるいは中東各地から日本へ出稼ぎに来ている人々との異文化交流に対して私たちの多くが対等意識を持って臨んでいるか、といえば決してそうではありません。やはり北アメリカやヨーロッパ各国の方へ目が向けられているのは否めない事実のような気がします。これを欧米崇拝信仰と称します。

 異文化国際交流といったところで、何も多額の公費を用いて派遣する必要はありません。おそらくは、その費用の半分は観光旅行に用いられるのでしょうから。むしろより多くの公費を用いるべきは、日本へ招くことに関連した費用です。これとて、篤志家を募集して家庭滞在(ホームステイ)方式をとれば、さほどの費用はかかりません。そして観光型滞在ではなく、あくまでも異文化交流体験に主眼を置くのです。習慣や文化、それにものの考え方の違い等を、生活を共にしながら体験的に学びあうのです。「言葉は心を越えない」という歌詞がありましたが、ボディ・ランゲージ(体話)で充分なのです。多くの言葉(言語表現)が必要とされるのは、相手との信頼関係が薄いときです。信頼関係にあるときには、人は多くの言葉は不要なのです。

 とはいえ、具体的には何から手をつけてゆけば良いのか見通しを持ちにくいと思われます。ですから具体的には姉妹都市関係を結ぶのです。そしてドンドン相互交流を行なうのです。子どもも、お年寄りもです。それもできるだけ長期滞在での交流が望ましいのです。もちろん民間主導型で良いのですが、これを「町おこし運動」として位置づけるには、官民一体がより望ましいのです。これらすべては、やれるかどうかの「判断」の段階ではなく、やるかどうかの「決断」の段階なのです。


「羊の国から」(16)
 10月初旬のある日曜日のことでした。私はクリスチャンですので、日曜日の礼拝に出席するために教会へと出かけました。しかし開始時間前に行った筈なのですが、不思議なことにもう終わる様子なのです。そこであわてて別の教会をアチコチ捜して行きましたが、どこも同じでした。まるでキツネにつままれたような変な気分でした。

 理由は簡単でした。それはこの国では、この日から「サマータイム」が実施されたからでした。サマータイム(もしくは「ディ・セービング」と言います)とは、夏の時期(この国では10月から3月の間)に、時計の針を一時間早く進めるという制度を意味する言葉です。すなわち朝の六時が、サマータイム期間中には七時となるわけです。そしてこのことによって、日本との時差が、それまでの3時間から時間となりました(すなわち、日本のお昼がこちらでは午後の時になります)。サマータイム制をとり入れる主な理由は、冷房と照明のエネルギー費用の節減だそうです。

 日本人の私にはこの制度になじみがありませんので、調べてみますと、何とOECD(経済協力開発機構)に加盟している24ヵ国のうち、サマータイム制度をとり入れていない国は、日本の他にアイスランドだけとのことでした。これには驚きました。もっとも、日本でも敗戦後の一時期にこの制度を導入したことがあったそうですが、やがて取り止めとなったそうです。理由は何となく分かるような気がします。おそらくは「働きバチ族」の多い日本では、終業時間になっても「まだ陽が高い!」などと言われて、それだけ残業が増えるだけの結果に終わったからではないかと思うのです。

 さて、このサマータイムは来年三月まで続くのですが、面白いのは、この国では開始と終了の細かい日時が毎年異なるといったことです。私もサマータイム制度のことは知っていましたので、あらかじめ何人かの人に「いつから始まるのですか?」と尋ねて回ったのでしたが、あまりハッキリとした返事はもらえませんでした。それはつまりは、こうした理由からだったのです。そして始まる数日前からテレビや新聞等で情報を流し始めるのだそうです。私の場合はそれを知らずに教会の礼拝に行ったために、もうすでに終わる頃になって教会へ着いた、というわけです。実に奇妙な経験でした。


「羊の国から」(17)
 以前にも書きましたが、この文章を読まれている人の中には、いつかこの国を訪れてみたいと願っている人もおられることと思います。そして、そのときにはレンタカーを借りて、この国を自在に動き回ってみたいと考えている人もキットいらっしゃることと思われます。そこで今回は、この国の運転事情について述べてみたいと思います。

 さて、ニュージーランドは英国やオーストラリアとともに、世界でも数少ない左側通行で運転ができる国(すなわち日本と同じ)です。しかも日本の70%の国土面積を有しながら、人口は北海道の半分強(350万人)ですから、市街地以外では車が渋滞することもなく、素晴らしい風景や羊たちを眺めながら、実に快適なドライブを楽しむことができます。ちなみに、この国では郊外での制限速度は100キロです。でも実際は、それが日本の60キロの感覚ですから、それ以上のスピード走る車が大半です。

 車はその多くが日本車です。しかも新車は日本で購入する二倍程度はします。驚くかもしれませんが、これはこの国の30才前後の普通のサラリーマンの年収分(税込)にあたります。これとは逆に、新車を4〜5台買う値段で、庭つきの広い一軒家を購入することができます。ですから、多くの人は、ちょうど日本で新車を購入するのと同じくらいの値段で中古車を購入するのが普通です。街のいたるところに中古車販売の店が並んでいます。中古車の場合、オートマチック車やパワステ車は少なく、またエアコン装備はほとんどされていません。それでも国土が広いためか、たいていの人は車を持っています。

 給油所は「ガスステーション」と呼ばれ、ガソリンは「ペトロール」と呼ばれています。最初、この国では給油は自分でするということを聞いていましたが、こちらが頼めば日本と同じように入れてくれます。そして、何といっても助かるのがガソリンの値段が日本の半分くらいだということです。それに税金がとっても安いのです。何だかとてもトクをしたような気持ちになります。給油所には車の故障の際の修理用品がたくさん並んでいます。バッテリーがあがってしまった時に、他の車のバッテリーとつなぐためのコードはいいとしても、信じられないような部品まで並んでいます。中古車が高速でビュンビュン走り回っている国ですから、それだけ部品のトラブルが多いのでしょう。

「羊の国から」(18)
 結論から先に述べますが、この国ではレンタカーを借りての運転はできるだけ避けた方が賢明だと私は思います。そのことは日本人ガイドさんも言っていたことです。その理由は、前回述べたように、車の運転速度がケタ違いに速いということです。高速道路ならいざしらず、一般道路でお互いが100キロ以上の速度ですれ違うのですから、それはものすごい緊張です。事故が起これば、それは直ちに死を意味します。まるでカーレースのようにビュンビュンと走るのがこの国の運転事情であるということは間違いありません。この国では車の保険のなかに、道路の石によるフロントガラスの損傷保障がついているといった事情も、さもありなんと思います。だいたいが日本の7割の国土面積に、北海道の半分強の人口を有する国ですから、スピード違反を取り締まろうにも手が足りません。

 次に、この国では交通信号の数が非常に少ないというのも特徴的です。右折優先に関しては運転をしてゆくうちに次第に慣れてゆくのですが、日本では当然あるであろう交差点に信号機がないのです。また、ところどころの交差点に信号のない「ロータリー」があるのですが、これが何とも複雑で、いつもヒヤヒヤしながら回っています。

 私はときどき「この国の人々は食事はゆっくりと食べるのに、どうして車の運転としゃべるスピードがあんなに早いのか?」と尋ねてみることがあります。それを聞いて皆、大笑いをします。そして一様に運転の恐さを語ります。多くの人は、やはり私と同じことを感じているみたいです。なにせ道路には、車にひかれた野性動物の死骸の他に、何と鳥の死骸がたくさん見られます。つまりそれだけ車のスピードが速いということです。

 ハミルトン市立博物館に戦争を記念するコーナーがあり、そこに日本軍の軍刀等の展示に交じって、日本が戦前に作成したニュージーランド国内の詳しい一覧地図が展示されています。私はこれがあまりにも詳細に記されていることに感動を覚えてしまったほどでしたが、それを見ますと、この国は鉄道網が非常に発達していたことが分かります。しかし現在は縮小の一途をたどっています。またバス路線も不況のせいで年々、縮小傾向です。必然的に車での移動に依存するということになります。そんなことで、人通りの少ない広い国土をノンビリと走っているわけにはゆかないのかもしれません。

「羊の国から」(19)
 私が訪問教授として滞在しているワイカト大学には、大学付属の「語学研究所」があります。その研究所には「英語学校」の機能もあります。昨年に設立されたばかりなのですが、そこに入れ替わり立ち替わり、老若男女を問わず、多くの日本人たちが家庭滞在(ホームスティ)をしながら英語を学びにやってきています。またここでは通常の英語クラスの他に、日本の特定の大学や高校と提携をしているらしく、そうした日本の若者たちが大学のキャンパス内を動き回っています。オークランド市やクライストチャーチ市では「犬も歩けば日本人に・・」のような光景が見られますが、ここハミルトン市でも次第に同じような状況になりつつあります。しかも午前中4時間の授業で、三ヵ月間で約25万円ほどの授業料ですから、決して安くはありません。

 最初、私もそこに入学しようかと考えましたが、時間もお金もかかるので半ば諦めかかっていたところ、週二回、夜間のクラスがあることを教えてもらいました。しかも授業料はタダなのです。その理由は、私がこの研究所で「外国人のための英語教授法」を学んでいる学生たちの教育実習の生徒役となることによります。ですから、ここでは、私は「プロフェッサー・ヤマキ」が、ファーストネームの「マサハル」となって、四苦八苦の生徒となるわけです。「学友」は中国からの化学を専攻する学生、韓国から近くの職業専門学校で学んでいる学生、台湾から移住してきた主婦とその子どもたち、同じくペルーから移住してきた若者です。

 クラスでは学生たちが入れ替わりながら、教材を使ってあれこれ教えてくれます。正直、教え方はヘタです。内容は中学生程度なのですが、それを説明する英語の聞き取りが充分理解できずに、いつも冷汗をポタポタと流しながら学んでいます。日本の受験英語教育の欠陥を強く知らされます。それに対して、台湾から来た小学生の子どもは、スラスラと答えてしまうのです。その子は何度か日本へも行ったことがあるらしく、北海道のことを「ポッカイド」と発音します。そして中国からの留学生と親しげに話しています。もちろん、他の学生同士も皆そうです。そうした光景をみながら、当たり前のことですが、国と国との境など、まったく人為的なものであることを感じています。


「羊の国から」(20)
 この国はポリネシア系を主とした多民族国家であるということはすでに述べました。それに加えて、アジア諸国からの移住者たちが数多くおります。
 前回述べた週二回の英語クラスでの学習の他に、私は地域の高校が主催している外国人のための英語クラスへ週一度、通っています。これはとても安くて、二ヵ月間で25ドル(約1,700円)です。クラスメイトは10名ほどで、東欧諸国からの移住者、それにカンボジア、ラオス、台湾、香港からの移住者です。東欧諸国の人は、かなり高いレベルの英語力がありますが、その他の人は初歩的なところから学びを始めています。驚いたのは香港の人です。私はそれまで香港では英語と中国語が同時に使用されていると思っていましたので、皆英語が上手に話せるとばかり思っていました。しかし、ある人々にとってはそうではないことを知らされました。

 ジャパニーズ・イングリッシュに対して、コリアン・イングリッシュといって、韓国人の英語もよく分かりませんが、ラオスやカンボジアの人の英語もまるで分かりません。加えて、ニュージーランドの英語は「キーウィ・イングリッシュ」と言って、「ツゥデイ」が「ツゥダイ」になる、あるいは「エイト」が「アイト」と発音されるといった特徴がありますから、余計分かりません。例えば「今日は月曜日です」は「ツゥダイ・イズ・マンダイ」になります。余談ですが、しばらく前まで一緒の研究室で過ごしたトンプソン博士はスコットランド出身でしたから、またまた特徴的でさらに混乱してしまいました。

 そうした中ですが、こうした人たちとの交わりはとても楽しく、学ぶことが多くあります。それに顔立ちがどこかしら似ている者同士ですから、何となく同じアジア民族として親しみがわきます。しかしこれらの国々に対して、「大東亜共栄圏」を夢見たかつての日本帝国主義は強引に植民地政策を推し進め、言語や姓名を始めとして、日本の文化を強制しようとした悲しい歴史があります。あるとき、台湾から移住してきた子どもが日本の軍歌を歌いはじめ、「これを知っているか?」と聞くのです。彼女のおジイちゃんが散歩のとき、よく歌っていたそうなのです。その時代は「鬼畜米英」などと称して、英米語が敵国語として排斥されていたであろうことを知るとき、隔世(カクセイ)の感がするのです。


「羊の国から」(21)
 私は英語クラスのクラスメイトたちとの挨拶のときには、できるだけその国の言葉で挨拶を交わすようにしています。幸い私はほんの少しですが、ドイツ語と韓国語が使えますのでそれで挨拶をすると、とたんに親しみの笑顔が返ってきました。今は中国語での挨拶を教えてもらっているところです。ちなみに、この国では日本語は第一外国語ですから、街を歩いていると子どもたちからよく「コンニチワ」などと声をかけられます。先日も、学校で日本語を習っている中学生の女の子が我が家に遊びに来ました。学習ノートにはビッシリと日本語が書かれてありました。

 私は英米語が世界でもっともすぐれた言語であり、世界の共通言語だなどとは思っていません。たまたま英連邦やアメリカ合衆国が強大な国家であったために広く用いられたにすぎません。この先、ある国が強大な力を持ちはじめたなら、その国の言語が広く使われ出すに違いありません。ちなみに江戸時代はオランダ語の習得が主流でしたし、明治時代は、とりわけ医学や体育、それに教育学の分野ではドイツ語が主流でした。

 敗戦後の日本を建て直すために来日した「アメリカ教育使節団」の報告書を読むと、そこには「漢字は止めてローマ字での表記に切り替えるべき」といった提言がみられます。結局それはボッになったのですが、興味深いことです。あるいは四島分割論が通り、北海道がソ連に占領統治されていたとしたのならば、私はロシア語を話していたに違いありません。沖縄と北方四島の問題は悲しむべき結果でしたが、ドイツや朝鮮半島と較べると、その傷は浅くて済んだといえるのかも知れません。しかも朝鮮半島の悲劇の原因は、日本の大陸侵略政策にあったのですから、申し訳のないかぎりです。そして今は、一日も早く平和的統一が実現されることを願うのみです。と同時に、北方四島がすみやかに返還されることを願うのみです。美幌へ帰るたびに、よく知床や根室や野付を訪れます。国後島がスグそこに見えます。国どうしの争いはもう避けてほしい、切実にそう思います。

 日本を離れて生活していると、日本のことや他国のことをよりいっそう深く考える機会が増えます。私が英米語をうまく運用できないからとて、特別な配慮をしてくれるわけではありませんが、「自分も日本語を使えないのだから」と言ってくれるのが救いです。

「祖国からはじかれる」(22)
 この写真は、地域の教会を借りて行なわれている英語クラスのある日の参加メンバーたちと一緒に撮ったものです。左から二人目が私です。私の左がポーランドからの移住者、右がペルーから、その横が台湾から、そして、しゃがんでいるのがチェコからの移住者です。その他に、ラオス・カンボジア・香港の人たちがいます。

 それぞれニュージーランドに移住してきた理由はさまざまです。ペルーのアデラは看護婦さんをしていましたが、祖国が不安定なため、彼女の兄が住んでいる、ここハミルトン市へ移住を願ったのだそうです。東欧諸国からの移住者たちも皆、同じような理由です。それはアジアからの移住者の場合も、です。いわば国家の都合で、そこから〈はじき出されてしまった人々〉が、止むなく祖国を離れるざるを得ない、といった状況は実に気の毒です。特にカンボジアの人の場合はなおさらです。別に好きで「祖国を捨てた」のではないのです。そしてわが祖国日本においても、かつてはそうした理由で北米・南米諸国へ移住して行った人たちが数多くいたであろうことを覚えるのです。思わず現在の我が身の幸運さを感謝せずにおれません。そうです。ただ「幸運」なだけなのです。

 さて、アチコチで日本の若者たちを数多く見かけます。その多くは「ワーキング・ホリディ」という一年間のみ有効の、いわばアルバイト・ビザ制度でこの国に滞在している人たちです。その中には、昨年はカナダでそうした一年を過ごし、今年はこの国で、といった男性もいました。私は冗談に「それでは来年はオーストラリアですね?」と言ってあげました。おそらくこの国には現在、そうした制度を利用して数多くの日本人たち(この国での年令制限は30才まで)が滞在しているのではないかと思われます。

 ニュージーランドと同様に、現在、おそらく数多くの日本の若者たちが世界中に散らばっているのだと思います。全て〈祖国ニッポン〉が経済大国で安定国家であるがゆえんです。そしてそのこととの引き替えに、強固な管理社会でもある祖国から一時的にせよ逃れたいと願う気持ちもある程度は理解できます。確かに青年期のこうした異文化体験はそれなりに意味を持つことでしょう。しかし愛する祖国を生涯にわたって離れざるを得なくなった人たちの気持ちを思うとき、やはり何かしら釈然としない気持ちが残るのです。

「祖国さまざま」(23)
 前回報告した「祖国」の問題について、さらに触れてみたいと思います。あるときの英語クラスで結婚式のことが話題になったことがありました。それぞれに、カンボジアでは、ペルーでは、日本では、との話が続いた後で、息子夫婦とともにポーランドから移住してきた老婦人が「自分が結婚した当時はナチ政権の時代で、楽しい思い出はなかった・・」と、いつもは明るいその老婦人がポッリと語りました。それは、かの「アウシュビッツ強制収容所」におけるユダヤ人への迫害でも理解できるように、唯一、祖国ポーランドが位置している地理的条件ゆえの悲しみの歴史でもありました。そのことは、同じく韓国へ行くたびに感じさせられることでもあります。すなわち朝鮮半島の歴史は、その地理的条件ゆえに、他国からの侵略による被害の歴史でもあったからです。

 一方、それはチェコの場合も同様です。30過ぎの彼女の場合は、夫がワイカト大学に職を得て移住してきたのですが、「自分はドイツ語は話せるが、あまり話したくない。またロシア語は学校で強制的に教えられたので話せるが、使いたくない。ソロバキア語はよく似ているので話せる・・」と、スムーズな英語で話してくれました。言語とは、とりわけヨーロッパ諸国の人たちにとっては、そのような性格(意味づけ)を有しているのです。ここでも、わが祖国ニッポンの「幸運」さを思わずにはおれません。

 さて、ニュージーランドは先住民族である「マオリ民族」の人たちとの共存がかなりスムーズに行なわれている国としても知られています。そして、それをベースとして安定した多民族国家への道を歩んでいます。人々の多くは祖国を誇りに思っています。その基本理念(精神)は「インデペンダント」、すなわち「自立」ということです。台湾・中国・韓国等からの安価な輸入品がデパートの店頭の多くを占め(ちなみに、日本製品はブランドを意味します)、長い不況に苦しみ、日本を中心とした観光客に大きな期待を寄せているかのようなこの国ですが、人々の表情には不思議なほどに〈ゆとり〉を感じるのです。平等主義がかなり浸透しているせいか、私が大学教授である、と言うと「それは忙しくて大変な仕事だね・・」と同情されるくらいです。職業によってサラリーに大きな違いがないことも影響しているのかもしれません。実にステキなこの国なのです。


「温泉を求めて(その1)」(24)
 私は以前、肢体不自由児の教育現場で働いていたときに罹(かか)った腰痛と腕の病気とで公務災害認定患者となってしまい、止むなく現場を離れました。そして20年経った今でも手書きではひどく腕が疲れます。ですから、針に糸を通す、などといった作業すら、私にとっては「夢のまた夢」です。そのため、文章のほとんどがワープロ書きです。

 そんなこともあってか、温泉には日頃から強い関心があります。ですから美幌で温泉が出そうだ、との情報は、私にとって飛び上がるほどに嬉しいニュースでした。これでますます美幌への想いが強くなりました。ちなみに、讃岐(香川県)で私がよく行く「美霞洞(みかど)温泉」は、琴南町立福祉センターとして運営が為されています。町営バスが地域のお年寄りたちを送迎しているのです。キット美幌の場合もそうなることでしょう。

 〈温泉に行きたいナア〜ッ。温泉に入りに日本へ戻りたい! 「美霞洞温泉」とは言わないけれど・・・ でも、その手前にある「ビレッジ美合」の方がもっとステキだけれど・・・ それよりも高知の「伊野温泉」の方が、いや岡山の「遥照山温泉」の方が・・・ 淡路島の「南淡温泉」の方が・・・ 北海道の「中小屋温泉」の方が・・・ しかしやっぱり屈斜路湖畔の温泉がベストだナア。何しろ展望窓の外は屈斜路湖の蒼い湖水が目の前だし、そこに白鳥が泳いでいるのがスグそばで眺められるのだから・・・ ア〜、温泉に入りたい!〉かくのごとく、日々こうした想いでいっぱいの私なのです。

 この写真は、そんな私が必死の想いで見つけ出した「ワインガロ温泉」という、私が住んでいるハミルトン市から50キロほど離れた静かな山間(やまあい)にある温泉です。家族風呂の使用料は、40分で500円ほどです。ちなみに温泉のことを、こちらでは「ホットスプリングス」と称するのですが、多くの場合、それは「温水プール」を意味します。ここにも三つのプールがあり、人々はそこに泳ぐ(もちろん水着を着て)のが目的でやってきます。カギのかかる家族風呂も同様で、こちらの人は水着を着て入ります。むろん、私はそんなことはしませんが・・ また、温泉ではありませんが、この国にはこれと似たようなものに「スパプール」というバブル式の家族風呂があります。そして、モーターロッジ(車で旅行をするときに泊まるホテル)には、たいていこれが設置されています。

「温泉を求めて(その2)」(25)
 ニュージーランドには代表的な温泉が二つあります。一つは北島の「ロトルア温泉」で、もう一つは南島の「ハンマー温泉」です。私は北島に住んでいますので、まず最初にロトルア温泉にチャレンジをすることにしました。このロトルアはマオリ民族発祥の地としても知られ、この国を代表するような観光地です。しかし実際にはガクッとくるほどに静かなところです。ちなみに、ロトルアでは「マオリコンサート」はゼッタイにお薦めです。すごいパワーとスピリットとを感じます。

 さて、ニュージーランドに到着してスグに、レンタカーを借りてロトルアのモーターロッジに泊まりました。日本のガイドブックに「温泉プールが二つある」と書かれてあったため、「これはグ〜!」とばかりに、わざわざ三泊分の予約をしておいたのです。たしかにありました。小さな「お湯たまり」が・・・・。しかも、もう何十年もお湯を替えたことがないような、お世辞にもキレイとは言えない「お湯たまり」が・・・・。私はそこで初めて「プール」という言葉の本当の意味を理解したのでした。サスガの私も入浴をあきらめるのにさほどの時間はかかりませんでした。そしてそのことでヒドク心が傷ついた私は「予定が急に変更になったので・・」と言って、翌日そそくさとそこを逃げ出したのでした。余談ですが、日本で売られているガイドブックに書かれてある宿泊場所の様子は、このようにあまり信用できませんので、ご注意ください。

 そんなわけでしばし落ち込んでいましたが、その二ヵ月後に、今度はパンフレットでさかんに宣伝されている「ポリネシアン・プール」へと出かけることにしました。ちなみに、ロトルアは私が住んでいるハミルトンから100キロあまり離れているのですが、温泉に入りたい一心の自分としては、80万円で購入した中古車(86年型の日本車がこの程度はするのです)を飛ばしてロトルアめざして行きました。今度はありました! 30分で450円の個人用の硫黄温泉が・・・・。そこでさっそく「ウ〜ン、なかなかのお湯だ!」と感動をしながら入りました。しばし感動をした後で「ハテ、やけに涼しいナ?」と思い、フト上を見ますと、ギクッ、何と天井がないのです! 思わず「もう信じられナ〜イ!」と叫んでしまいました。そして温泉を求める私の旅はさらに続くのでした。

「温泉を求めて(その3)」(26)
 天井のないロトルアの温泉に驚きながらも、それでも「まあ、ゆるせるワイ・・」などとブッブッ独り言をいいながら温泉からあがり、アイスを食べていますと、そこに日本のギャルたちがおりました。そのうちの一人は現地の人と結婚をしてロトルアに住んでいる女性でした。そこで「この他に温泉はないのですか?」と軽〜い気持ちで尋ねますと「ある」との答え。はずむ心が私の体のなかで踊り出しました。彼女はホントに簡単な地図を書いてくれました(そのせいで、探すのにヒドク苦労をしました)。そこで翌日、またまた中古車をビュ〜ンと走らせて、今度はハミルトンから60キロほど離れた「オトロイレ」というところへ行きました。「こんなところに人が住んでいるんかしらん?」と思えるほどに野を越え、山を越えて、ようやく辿り着いたそこは、しかしただ単にぬるいお湯が湧き出るだけの自然の「プール」でした。ガクッでした。

 さて、今私の机の上には「マルイア温泉」の日本語パンフレットが置かれてあります。そこには「ニュージーランド初の日本式天然温泉大浴場が秘湯マルイア・スプリングスに堂々オープン」と書かれてあります。しかし残念ながら、そこは私の住む北島ではなく、南島なのです。そのパンフレットを最初に見たときから、「いつの日にか行ってみたい!」と堅く心に決めました。

 そして年末年始の休暇を利用してイヨイヨ温泉を求める旅に出かけることにしました。ウェリントンからフェリーに乗り、野を越え、山を越えてついにマルイア温泉へやってきました。およそ美幌から青森ほどの距離を走りました。静かな保養地であるハンマー温泉から約80キロほどさらに山奥にあるこのマルイア温泉は、新潟県の赤倉温泉にあるホテルが経営している日本式の温泉です。露天風呂や宿泊設備もあり、ジンギスカン料理も食べられます。この写真がそれです。なかなかの温泉でした。私はあまりの嬉しさに、一日で八回も入浴してしまいました。

 これでようやく私の温泉を求める長い旅は終わりを告げました。結論を言えば、やはり温泉は日本に限る、というごく単純な結果に終わりました。この国の人たちから、しばしば「日本人は賢い」と言われます。温泉など、その最(さい)たるものかもしれません。


「不思議な国の優しい人々(その1)」(27回)
 12月中旬から2月初旬にかけて、ニュージーランドの学校は長い「夏休み」に入ります。そこで私もその間の休暇を利用して、前回述べたように、南島へ一ヵ月間のドライブ旅行に出かけることにしました。走行距離、実に約6,000キロの旅でした。そこで、今回はその旅行で体験した出来事を中心に報告をしてみたいと思います。

 今回の旅行を一言で表現すると、この国の人々の徹底した<優しさ>に触れた旅であったとも言えます。以下、いくつかのエピソードを紹介します。旅行に出かけるにあたり、こちらで購入した中古車の性能に不安を持っていたため、自動車整備工場の人に「ファンベルトとバッテリー、それにオイル交換をお願いします」と告げました。しかし何れも「交換する必要がない」と断られてしまいました。そこで「せめてオイルだけでも・・」と言うと「交換時期が来たら南島で換えればよい」との返事。それでも重ねてお願いをすると、しぶしぶ交換してくれました。良心的で正直と言えばその通りです。日本では喜んで交換してくれるはずです。不思議な感じがしました。

 あるとき車輪のなかに小石が入り、ものすごい雑音がし始めました。そこでビックリしてガソリンスタンドで見てもらいました。「この国ではよくあることさ」と車輪を外して小石を取り除いてくれました。「費用は?」と聞くと、不思議そうな顔をして「別に・・」と答えました。そこで私は「せめてガソリンだけでも」、と給油をしました。

 その後、まだギーギー音がするので、別の修理工場へ行きました。すでに閉店時間であったのにもかかわらず、わざわざ店を開けて、車輪を外し、懸命になって小石を取り除いてくれました。これも無料でした。思わず私は「クリスマスプレゼント!」と言って、持っていたお菓子を差し出しました。さらには、お正月のときにも調子が悪くなり、別の修理工場に駆け込みました。またまた車輪を外し点検をしてくれました。あれこれ調べてくれた結果「別に問題ない」と言いました。これも無料でした。どうやらこの国では、この程度の修理にはお金がかからないことが多いらしいのです。

 この国の人々は、限りなく親切です。それに警戒心がまるでないかのようにフレンドリー(友好的)です。この国を訪れた人々が夢中になるはずです。実にステキな国です。

「不思議な国の優しい人々(その2)」(28)
 この国の最南端はスチュワート島です。そしてその先は「南極」です。そこへはインヴァーカーギルからフェリーか、9人乗りのセスナ機で行きます。飛行時間は約20分で、料金は往復で8,000円くらいです。私は養護学校へ通う(私が養育している)子どもを同行していたため、「そうした人への割り引き制度はありますか?」と聞きました。仕事がら、参考のために必ず聞くことにしているのです。カウンターの若い女性はそれに対して、いとも簡単に「フリー(無料)」と答えました。私はうろたえてしまいました。日本ではしばらく前から、ようやく体の不自由な人と同じ条件の25%の割引制度ができたばかりです。しかも必ず療育手帳等の提示が求められます。そこで「何か証明書は必要ですか?」と尋ねると「いらない」と答えます。「唖(あ)然!」とは、まさにこのことです。

 秘境の地であるミルフォードサウンドでの出来事です(この写真がそれです)。そこのホテルに泊りながら、天候がなかなか回復しないのでいつ遊覧船に乗ろうかと迷っていると、カウンターの人が「何度か乗ればよい」と言うのです。一回が2,000円ほどでしたが、そうしようと思いチケットを買うと、「次からは何回乗っても無料だ」と言うのです。90分の遊覧時間です。結局、合計三回も乗り、思う存分、楽しむことができました。

 宿泊場所は、大抵が個人経営のモーテル(モーターイン、もしくはモーターロッジとも称されます)でした。車で旅行するのが一般的なスタイルのこの国では、これが普通の宿泊場所なのです。部屋の様子は、ちょうどワンルームか1DKの部屋を思い浮べると良いかと思います。食器類やスプーン類を含めて自炊設備が完備されています。皆新しく、清潔な部屋ばかりです。家族三人で、1泊4,000円から6,000円程度です。ときには交渉次第で安くなる場合もあります。どこも親切で、友だちのような雰囲気で迎えてくれました。

 大抵は前日に翌日の予定をたて、その場所のモーテルのリストを調べ、電話で予約をしました。しかし予約なしの場合は、夕方になって探し始めると、既にいっぱいでなかなか見つからないときもありました(一つのモーテルは4〜20部屋程度)。するとたいていの場合、別のモーテルを探して紹介してくれました。時にはこちらが「もう結構ですから・・」と言いたくなるほどの熱心さで探してくれました。感謝でした。


「不思議な国の優しい人々(その3)」(29)
 旅行も終わりに近づいて、カイコウラというところへ来ました。そこはクレィフィッシュ(ザリガニ)で有名なところです。それと遊覧ボートで、海で泳ぐクジラを見ることができます。そこで申し込みをしようとすると、既に予約でいっぱいでした。しっかり日本の旅行会社がクライストチャーチからの日帰り観光ルートとして押さえてあったためです。止むなくキャンセル待ちをしていましたが、無理のようなので諦めてビデオテープを買って帰ろうとしたら職員がやって来て、「せっかく来てもらったのに残念だ。せめてこれを見てほしい・・」そう言いながらビデオテープと写真集を手渡してくれるのです。当然、私は「いくらですか?」と聞きました。しかし無料でした。ちなみにクレィフィッシュ(20センチほどのが千円程度)はおいしくて、とても満足しました。

 ところで、前回触れたミルフォードサウンドで、北海道からのパックツアーの人たちに出会いました。ツアーの場合、クィーンズタウンから往復10時間もバスに揺られてやってきます。他の日本からの団体客もおり、船の乗り場は、さながら阿寒湖のマリモの遊覧船乗り場と同じでした。そこで日本食のお弁当を渡され(私はただ眺めるだけ)、そして百人以上は乗船している船のガイドは日本語でした。ちなみに、ここまで来るには知床の奥地へ行くような危険な道路を数時間あまり揺られて来るのです。慣れぬ道をヒヤヒヤ、ドキドキしながらようやく着くと、観光バスによる日本人の団体さんではガクッときます。

 さて、タスマン海に面したフォックス氷河を歩いた後、いよいよ難所のアーサーズ峠へと向かいました。これまた凄(すさ)まじいほどの急勾配の道で、命が縮まる思いをしながら懸命に越えました。数時間かけてようやく峠を越えて麓(ふもと)のレストランまで辿り着き、軽い食事をと思うと、またまた日本の団体さんたちがそこにいました。クラィストチャーチからの日帰り観光でここまで来ていた人たちでした。疲れがドッと出ました。ここまで汽車で来て、帰りはジェットボートに乗るのだそうです。ある中年の女性がセーターを買おうとして日本語で話しています。むろん通じません。不思議そうな顔をしています。そうです。パック旅行の場合は、ほぼ全てが日本語でオーケーなのです。この女性もしばしここが他国であることを忘れてしまったのかもしれません。

「偉大なる田舎国家」(30)
 この国の様子を深く知れば知るほど、私はこの国の将来に次第に不安を覚えるようになってきました。半年あまりで、ほぼニュージーランド国内をくまなく回りましたが、どこに行っても日本人観光客の姿が目につきました。それと台湾人観光客です。クラィストチャーチやクィーンズタウンなどは、もうかなり「日本化」が進んでいます。

 旅行中、やはり休暇でこの国を旅行中のシドニー(オーストラリア)やジャカルタ(インドネシア)、そしてシンガポールの現地駐在員の方々とアレコレお話をしましたが、これらの都市は、もうすでに日本化がかなり進んでいるとのことでした。日本人が多く、日本の食料品も不足がなく、日本語で用が足せ、その日のうちに日本の新聞が読めるとのことでした。事実、都市国家であるシンガポールなど「リトル東京」そのものです。

 この国も三年前に最初に訪問したときには、土・日曜日は大抵の店が閉まっていたのに、今ではそうではありません。そして「ここは日本かしら?」と思えるほどに、オークランドやクラィストチャーチ、それにクィーンズタウンは日本語での表示があふれ、日本人がゾロゾロ歩いています。「ジャパンマネー」の影響がもうここまで来ています。

 既にニュージーランドの主要都市の大半は日本との姉妹都市関係を結んでいます。例えば北海道に関しても、ネーピアは苫小牧と、ダニーデンは小樽と、といった具合です。何せこの国の人々の多くは、はにかみ屋で、純朴なところがありますので、ストレートに日本の影響を受けてしまいます。もっとも「キャラオーケ」(カラオケのこと)くらいの影響であれば罪はありませんが・・。

 戸締まりをせずに眠り、ハダシで歩くのが少しも不思議ではないようなこの国でも、最近では「夜の一人歩きは危険」みたいなコマーシャルがテレビで流されるようになってきました。それでもこの国は、実にステキな「偉大なる田舎国家」です。ですから、日本の都市型文化の影響で素朴な文化が荒(すさ)んでゆくべきではありません。今はまだ日本へのイメージはさほど悪化していませんが、これほどまで急速にパック旅行を中心とした日本人たちが怒涛(どとう)のように押しかけ続け、「旅の恥は・・」みたいな無神経な行動を続けられると、やがてジャパンバッシング(日本叩き)が始まるかもしれません。

「姉妹都市への道」(31)
 ニュージーランド国内をくまなく旅行してみてよく分かったことですが、この国はまだ開発途上にある、ということです。むろん文化や生活水準はかなり高いのですが、これだけの国土にこの人口ですから、まだ開発されていない場所がたくさんあるということです。しかも自然保護に力を注いでいる国ですから、いっそうです。「最後の秘境・知床」や「最後の清流・四万十川」も色あせるほどに、息を飲むような自然がアチコチにあります。

 地図には「国道」などと記されていても、舗装されていない道路も数多く、しかも薄いアスファルトの上に、岩を細かく砕いた小石を張りつけているような道路が多いため、その小石が車にはねられてビュンビュン飛んできます。旅行を終えると、飛んできた小石でフロントガラスのアチコチにひびが入り、取り替えました。保険で全額タダでした。

 この国の人々が誇りとする理念は「インデペンダント」(自立)です。「老いては子に従え」は、この国では情けない生き方と思われています。ですから一人暮らしの老人が実に多いのです。まあ、これはこれで問題なのですが・・ とにかく開拓者精神が根強く残っており、「日本ではガン告知はあまりしない」と言うと、皆「どうしてだ? この国ではヨ〜シ病気に敗けないゾ! と思うのに・・」と不思議そうな顔をされました。あるとき「孫が小児ガンにかかったのでお見舞いに行ってほしい」との友人からの依頼で、緊張しながら病院へ行くと「小児ガン協会」と印刷されたプレゼントの箱があり、そこにはオモチャの他に、病気の解説書や保護者の心構え等のパンフレットが入っていました。

 わが愛する美幌も「偉大なる田舎町」をめざせば良いのです。私自身、かつて東京に15年あまり住んだ経験を持っていますが、今では時おり東京へ行くと、もう本当に気分が悪くなります。新宿の新都庁の展望台に昇ってスモッグに薄汚れた都内を見渡したときなど、こんな中に住んでいたのかと思い、ゾッとしたものでした。何度も繰り返しますが、美幌はニュージーランドと深い交流をすべきなのです。美幌のようなステキな田舎町が、一日も早く姉妹都市関係で押さえてゆかないと、この国は悪(あ)しき日本の都市型文化の餌食(えじき)とされてしまう恐れがあります。むろん私自身、そのための協力は惜しまないつもりです。今回の写真は、かの有名な「バンジー・ジャンプ」です。


「チャンスは今」(32)
 私が滞在しているハミルトンは、埼玉県の浦和市と姉妹都市関係を結んでいます。先日も、美しいハミルトン公園の一角に「日本庭園」を造成する起工式のために浦和市長がやってきました(もっとも、財政援助を期待してのことですが)。関係者の人に話を聞きますと、最初は長野県のある市と姉妹都市関係を結びたかったのだそうです。しかし行政側が浦和市を選んだのだそうです。多分それは東京に近かったせいかもしれません。

 そんなことがあってか、フッと思い出したことがあります。それは今から40年ほど前に、私の父(八巻正一)が美幌町役場の観光係長をしていたときのことです。何とか美幌峠を全国に売り込みたいと考えた父は、役場の関係者たちの事前承認なしに原作者の菊田一男氏に連絡をとり、例の『君の名は』の映画ロケを実現させようとしたのです。生前、父からよくその話を聞かされたものでした。当時は周囲の無理解さから、ロケの実施にはかなり苦労をしたらしいのですが、しかしその結果はご覧の通りです。今や美幌峠は日本を代表する景勝地です。美幌をふるさとに持つ私は最高の幸せ者だと思っています。

 その後、「町民相談室」の初代室長として、今で言うところのソーシャルワーカーのような役割を果たした父でしたが、本当に粉骨砕身(ふんこつさいしん)で美幌のために尽くした人でした。元町の私の家には、いつもあれこれと相談を持ち込む人が来ていたものでした。これも生前、私の母親が「父(とう)サンは、口は悪かったけれど、根性は良かった・・」と口癖のように言っていたごとく、まるで相手に対して説教をしているかのような話し振りの様子を今でも鮮明に覚えています。しかしそれだけ親身になって人々に接していたということです。まあ、たぶん当時の公務員としては型破りのタイプだったのでしよう。

 今、ニュージーランドは日本からの観光客が急増しています。そのためガイドブックが飛ぶように売れています。そしてもう既に、日本の多くの市町村がこの国との姉妹都市関係を結んでいます。もしも美幌がそこに加われば、美幌の良さをこの国に伝えることができ、また逆に、この国を訪れた日本からの観光客が、それ(姉妹都市関係)を通して美幌の良さを知ることにもつながるのです。まさに一石二鳥です。そして今がそのチャンスなのです。今回の写真は、苫小牧の姉妹都市であるネーピアの美しい街並です。

「マオリ語のこと」(33)
 ニュージーランドの高校では、夜間に学校の教室を利用して数多くの教養講座が開かれています。受講料は週一回、2時間で200円ほどです。クラスの種類は、料理教室や語学教室をはじめとして、運転免許の取得の仕方から、羊毛から糸をつくる技術を取得するクラスまで、実にさまざまです。この教養講座は市民にとても人気が高く、そのため、申し込み当日は長蛇の列ができるほどの盛況ぶりです。

 私は現在、そのなかの『マオリ語』クラスを受講しています。私がマオリ語を勉強しようと思ったのは、この国の先住民族であるマオリ族の人々の使用言語を学ぶことによって、この国の文化をより深く理解をしたいと思ったからです。しかし、いわば日本語を充分理解できていない人が、日本語でアイヌ語を学ぼうとしているようなものですから、ヒヤ汗を通り越して、やや悲壮(?)な思いで参加しています。幸い、マオリ語の発音は日本語とよく似ているため、発音だけは胸を張っています。ちなみに、この国のことをマオリ語で「アオテアロア(『細長く白い雲のたなびく国』という意味)と言うのですが、私の方が上手に発音できます。今は簡単な挨拶しかできませんが、「参加することに意義がある」の気持ちで頑張ろうと思っています。

 実は、前回の開講のときにもマオリ語のクラスを受講したかったのでしたが、このクラスはいつもすぐに定員を越えてしまい、受講できませんでした。それほど人気があるのです。以前にも述べましたが、マオリ語は英語と並んでこの国の公用語です。したがって公的な掲示物は、全てマオリ語と英語で書かれてあります。ちなみに、私の住んでいる地方は「ワイカト地方」と呼ばれていますが、これはマオリ語で「ワイ=水、カト=折る」から来ています。すなわち、内陸を流れるワイカト川によって地域が分けられているからです。この国の地名にこうしたマオリ語での表記を見いだすのは容易です。その理由は、何よりもマオリの人々がこの国の先住民族であるからです。同じように、北海道の地名の多くに(美幌もそうですが)アイヌ語での表記が見られるのは、アイヌの人々が、少なくとも北海道に於いては先住民族であるからです。北海道で生まれ育ちながら、これまでアイヌ語や文化にほとんど関心を払ってこなかった自分を今、深く恥じている次第です。

「多文化国家」(34)
 私の専門分野は、心身に機能的な制限状態を有するために、さまざまな側面においてハンディキャップ(不利的状態)を有している人々の教育、および福祉問題です。私自身、現場実践を含めて、これまで長い間、そうした「物理的・精神的・社会的」な不利的状況をどうしたら是正できるかを考えてきました。そうして辿り着いたのが、日本は単一民族国家意識が強いために、一人ひとりが、その人なりに固有に生きようとするのを容易に認めようとはしない国家である、といった結論でした。そして、そうした価値観(意識)を変えなければ、真の意味での問題の解決はありえない、といった結論でした。

 そうした価値意識の結果、日本ではいつもある種の緊張感を持ちながら「弱い立場に置かれている人々」の問題に取り組まなければならないような状況になってきてしまったのです。以前触れた部落問題がそうですし、在日朝鮮人・韓国人の問題もそうです。むろん、私の専門とする領域もその例外ではありません。昨年、香川県ではそうした子どもの就学権を巡る問題で教育界が激しく揺れ、私自身もコメントを求めるマスコミ等の取材でスッカリ振り回されてしまいました。そして、実はアイヌ問題もそうなのです。

 オホーツク文化はアイヌ文化そのものである、と私は理解しています。したがって、美幌はアイヌ文化を継承し、発展させるべき義務と責任とを有していると私は考えています。長い間「白豪主義」をとってきた隣国のオーストラリアとは異なり、マオリ民族だけでも人口の10%以上を占め、「一つの国家に、二つの文化」を基本テーマに、南太平洋諸国からの移民者たちをも含め、多民族国家としての長い歩みをなしてきたニュージーランドの姿は、前述の諸問題を考えるうえで、私たちに大きな示唆を与えてくれます。加えて、この国は最近ではアジア諸国からの難民・移民を積極的に受け入れてきていますから、異文化ではなく「多文化国家」とでも表現できそうな状況がそこにあります。

 こうしたことの結果、ある種の社会的混乱が生じ、国家運営がスムーズにゆかない部分も当然、生じてきてしまいます。この国の不況の一因は、ここにあるのではないかと思ったりもします。一方、日本は難民・移民、それに先住民族に対して実に冷淡です。そして日本の経済的な繁栄の一因が、実はここにあるのです。実に悲しいことと思います。


「真の文化とは?」(35)
 この国では先住民族であるマオリ民族の文化を重要視している、ということについては既に述べてきました。と言うよりは、多くの人々にとって「マオリ文化はこの国の誇り」と思っている、と表現をした方がより正確かもしれません。私が住んでいる家は大学の敷地内にあるのですが、その近くに、大学によって設置されたマオリの集会場(マラエ)があります。大学の専攻にマオリ文化を学ぶコースもあり、そこではマオリの伝統文化を学ぶ人たちの姿がひんぱんに見られます。

 この国では公的な行事はマオリのセレモニー(これを「ポフリ」と言います)をもって行なわれます。ポフリの様子を文章で表現するのは難しいのですが、荘厳(そうごん)とした中にも、実にユーモアあふれたセレモニーが展開されます。新しい学部長が赴任したときに行なわれたポフリに参加した時にも、学長や学部長は、先ず最初にマオリ語で五分間ほどの挨拶をのべるのです。すなわち、この国では重要なポストに就く人々にとっては、マオリ語の習得は必須事項なのです。日本におけるアイヌ語に対する社会的位置づけとは大違いの状況があります。

 「北海道旧土人保護法」という、実に非人間的な法律に代表されるごとく、日本政府の差別的な同化政策によって、アイヌ民族の人々は圧迫を受け続けてきました。その結果、双方が緊張し合いながらこうした問題をとらえる、といった悲しい状況となっています。しかしだからといって逃げてはならないのです。世の政治家たちは選挙になるたびに「福祉や教育の充実」をテーマにします。しかしその実、理論的に裏づけられたポリシー(理念)が弱いために、建物や制度を多少整備すれば事足りるとでも考えているかのようです。しかし本当は、こうした問題に真摯(しんし)な姿勢で正面から取り組むということが、真の意味での福祉や教育の充実ということなのです。しかも「一人の人権や幸せが確保できずして、全体の幸せはありえない」との<まなざし>で取り組むことです。

 ご承知のように、今年は「国際先住民年」です。「美幌へ行けば、アイヌ文化がどこよりも深く学べる」と言われる美幌にしたいものです。歴史的に真に評価されるのは、目新しい建物や一時的なイベントなどではなく、こうした地味で継続した働きなのです。

「国際交流のまなざし」(36)
 全てを詳しく把握しているわけでは無論ないのですが、現在、世界各地で起こっている争いの大半は民族紛争ではないかと思われます。そしてその根底には宗教の問題が絡んでいるケースが多いのです。その代表例が、北アイルランドのカトリックとプロテスタントの争いであり、キリスト教徒である私にとっては、実に心の重い問題です。また先の湾岸戦争で明らかになったように、イラクをめぐる争いは、言葉を換えるとユダヤ教・イスラム教・キリスト教の底流に横たわるところの世界観の違いから生じた争いとも言えます。インドではヒンズー教とイスラム教のトラブルが続いています。世界平和を希求するのが宗教本来の役割の筈であるのに、悲しい現実がそこにあります。

 さて、日本はこれまで明治維新以後、富国強兵・殖産興業を合い言葉に、単一民族国家意識をもって、ブルドーザーのごとく猪突(ちょとつ)猛進の姿勢で走ってきました。先の大戦でも、他国を侵略すると、相手に強引に日本の文化を押しつけようとしました。韓国へ行くと、8月15日は「祖国解放」の祝日です。最近ようやくアジアについての正しい歴史を教えようといった気運が盛り上がってきましたが、歴史上の事実は事実として正しく認識し、それを乗り越えて他国との協調路線を歩むべきであると私は考えています。

 全自動カメラのことを「バカチョン・カメラ」などと言う人もいますが、これは「バカ=知的ハンディキャップを有した人や、チョン=チョソン(韓国・朝鮮の人)でも写せるカメラ」を意味する差別表現であることを、どれほどの人が理解をしているのでしょうか? あるいは、選挙に当選した際に、バンザイ三唱と共に「ダルマに目を入れる」セレモニーがごく普通に行なわれますが、これは「片目の状態の人は、人間として不完全である」ことを示すところの、目の不自由な人に対する明確な差別行為であるという事を、情けないことに、わが国のほとんどの政治家たちは全く理解できていないのです。

 国際交流、あるいは異文化体験とは、こうした国家・民族・宗教・習慣等の底流に横たわる主義主張を乗り越えようとするところの、真摯(しんし)な試みでなければなりません。思いつき程度で取り掛かるものであっては決してなりません。ましてや、半(なか)ば観光目的で交流をしようなどとは、相手国を愚弄(ぐろう)するのに等しいのです。

「日本語教師を求む」(37)
 昨年、ある町長が学校給食制度の廃止を提言して、全国的に論議を呼んだことがありました。その後、その町長が死去してしまったこともあって、その議論も急速にしぼんでしまいました。現行の教育委員会制度と同様、学校給食制度それ自体に関しては再検討してみる価値はあると思われます。しかし新聞社のインタビューに対して「それで浮いた予算で、小学校に英米人教師を配置する」といったニュアンスの記事が掲載されていましたが、この町長が本気でこんなことを考えていたとしたのならば、残念ながらピントがずれています。なぜなら、学校給食制度と語学講師の配置とは論点が全く異なるからです。

 以前にも書きましたが、この国では今や日本語は第一外国語です。そのため、アチコチでニュージーランド人の日本語教師に出合います。しかし申し訳ないのですが、そのレベルたるやヒドイものです。すなわち、需要に供給が追い付かないために、質の低い日本語教師たちが実に多いのです。ですから、私にさえも「自分に日本語会話を教えてほしい」との「日本語教師」からの個人教授の依頼がしばしばあるのです。今、この国では数多くの日本語教師(日本人であれば、さらに良い)を求めています。但し、当然ですが、日本語を教えるためには、ある程度の英語力がなければなりませんが・・

 もしも、こちらが日本語を教えにゆく代わりに、英語を教えにきてほしい、といった一年程度の交換教授プログラムを提示すれば、美幌程度の規模の町では、アッと言う間に全ての小中学校にニュージーランド人の英語講師が常勤で配置可能です。ちなみに、私が親しくしているジョセリンさんという日本語教師は、日本語および日本の文化を学ぶために、自費で家族で一年間、千葉県で住んだ経験を持っています。こちらの日本語教師たちの多くは、たぶんそうした日本での現地経験を持ちたいと強く願っている筈なのです。

 北海道に関して言えば、小学校は英語のみでも構いませんが、中学校ではそれに加えて「韓国・朝鮮語」および「ロシア語」を母国語とする語学講師たちの配置がどうしても必要だと私は考えています。言葉を学ぶということは、その国の文化や思想を学ぶということです。大げさでもなんでもなく、もやは地球規模で思考しなくては地域の問題は解けないのです。美幌の将来を真剣に考えるなら、一考の価値はあるものと思っています。


「ニュージーランドにとっての日本」(38)
 今回、ケンブリッジが実に鮮やかに美幌との姉妹都市提携への議会決議を行なった経緯については、既に本紙で述べさせていただきました。そこで、これからしばらくは、ケンブリッジ議会がそうした決議を採択した背景について、私なりの分析を行なうとともに、今後の交流の在り方について述べてみたいと思います。

 さて、単なる観光旅行による訪問や、民間団体による交流を越えて、自治体レベルでの公的な関係を締結しようとするからには、相互の公益がそこに明確に存在することが前提となります。すなわち、どの国のどの都市と公的(姉妹都市)関係を締結するかは、単なる思い付きや偶然などといったレベルであっては決してならないからです。次回に述べますが、今や世界情勢はそうした悠長(ゆうちょう)な段階ではないからです。

 先ず最初に、それを経済的な要因から分析してみることにしたいと思います。1990年版の『通商白書』(通産省)によりますと、輸出入ともに、わが国の貿易相手国の上位二十位までの中にニュージーランドは入っていません。しかし逆に、ニュージーランド政府作成による1991年度の統計をみますと、ニュージーランドにとって日本は、輸出相手国としては、隣国であるオーストラリアに続いて第二位(第三位が米国)、また輸入相手国としてはオーストラリア・米国に続いて第三位となっています。すなわち、これでニュージーランドにとって日本が自国の貿易相手国として非常に重要な位置を占めている、ということが容易にお分りいただけたかと思います。

 次に、同じ政府の統計(1991年度)によりますと、ニュージーランドを訪れた日本人観光客が消費した額については、やはりオーストラリア・米国に続いて第三位となっています。ちなみに、これを海外旅行者数の対国内人口比でみますと、1989年版の『観光白書』(総理府)には、米国の16.8%に対して、日本は7.8%といった統計が載っております。すなわちこのことの意味は、今後、日本人の海外旅行者数が米国並みに増え続けるとしたならば、それに比例してニュージーランドへの旅行者数も当然、増加することが予想され、したがって、日本人観光客がニュージーランド国内において消費する額がさらに増加するであろうことが充分に予測可能である、ということです。

「地方自治体の責務」(39)
 かつては地方の自治体には、単なる民間交流を越えて独自に自治体外交を行なう、などといった役割は課せられていませんでした。しかし情報化時代の現代では、特に湾岸戦争以後、世界中がリアルタイムでつながり、さらにはソ連の崩壊で、地球全体が運命共同体であることを、今やだれしもが理解できるようになりました。これまでのような、東京を経由して「二番煎じ」的に世界の情報をつかむ時代は、もはや足早に過ぎ去ったのです。したがって今日では、いかにして世界から必要な情報を直接キャッチし、独自の行政方略を組み立てるかが地方自治体(美幌も含まれます)に課せられた責務となってきました。

 さらには近い将来、道州制もしくは連邦制への模索が始まるのと同時に、広域行政への流れがさらに加速化するであろうことは疑いのないところです。そうした将来予想のもとで、近隣市町村の中で美幌がより重要な位置を占めるためには、世界の動きを迅速にキャッチすべく独自の情報ルートを確保しておくことがきわめて重要であろうと思われます。そのためには、当然のことながら、どの国のどの都市と提携を結ぶかが重要となってきます。その点、幸いにしてニュージーランドは広域行政制度を採っている国で、ケンブリッジは人口約三万七千人を抱えるファイパ地域に属しています。そして、その地域に議会(議員数12名)があり、首長がいます。さらには各地区にもそれぞれ独自の議会(ケンブリッジ地区の議員数は七名)がある、といった構成となっています。これはちょうど、美幌の近隣町村を併せて広域行政圏を構成し、そこに一人の首長と議会とがあり、さらに各町村にもそれぞれの議会がある、といった構造と同じです。ケンブリッジが美幌との姉妹都市提携を容易に決定できたのは、こうした「小回りのきく」行政機構にあるのです。

 さらに幸運なことに、既にケンブリッジはオーストラリアに一つ、米国に二つの姉妹都市(アリゾナ州およびカリフォルニア州)を有しています。美幌がケンブリッジを通して、そうした既存のネットワークを活用しない理由はありません。とりわけ農産物問題等を考えるうえで、米国からの情報を直接的に得るルートを確保しておくことは、中央集権体制がかなり強固に残っているわが国の政治経済体制下において疲弊(ひへい)しつつある地方自治体が生き残るうえでの、きわめて重要な自己防衛策であろうと考えるのです。


「夢とビジョン」(40)
 私が美幌の姉妹都市提携先としてケンブリッジを選んだ理由については、すでに本紙上において詳しく紹介されましたが、その理由の第一に「ケンブリッジが美幌と比較して適正規模の人口を有していること」を挙げました。具体的には美幌の約半分です。その理由は、とりわけ日本の多くの地方自治体にとって、外国の都市と交流をする場合は、国内の場合と較べてより多くのエネルギーがとられるからです。すなわち、美幌と同じ程度の規模の街では、どうしても美幌の方が「力負け」をしてしまう可能性が高いのです。それゆえ、美幌はケンブリッジ程度の規模の街と提携をし、交流をするのがベストなのです。

 きわめて評論家的な言い方で恐縮ですが、私個人は美幌程度のパワー(規模および財政力)を有している街の場合は、海外の五都市程度と姉妹都市提携が可能であろうと判断をしています。具体的にはニュージーランドの他に、米国・ロシア・韓国・中国等です。さらには、北欧(その中でも、特にデンマーク)とも提携への道を模索すべきです。

 そうなると当然、現在の行政機構では対応が困難ですから、そうした方向に向けて整備をしてゆくべき必要があります。これは前回述べたように、地方自治体の、いわばサバイバルゲーム(生き残り作戦)の一環としての、企業でいうところの「先行投資」に類するものです。私のように地方の私立大学に勤務し、大学の生き残りをかけた熾烈(しれつ)なサバイバルゲームの最中(さなか)に身を置いている者にとって、こうした先行投資的発想はきわめて現実的な問題です。事実、近くの短大はそれを怠り、廃学に追いやられました。またある短大は学内に温泉を引き、ゴルフコースをつくり、自動車教習所までも整備して多くの学生を集めています。好むと好まざるとにかかわらず、これが現実だからです。

 ケンブリッジに関しては、今のところは英語で交流をしなくてはなりませんが、相互交流が深まれば、ケンブリッジにもやがて日本語を理解するスタッフが配置され、より円滑な交流が可能となることが予想されますから、心配ありません。ひょっとしたら、美幌町役場のスタッフが「出向」でケンブリッジ役場に勤務するようになるかもしれません。当然、その逆もあり得ます。そして可能なかぎり、子どもから高齢者まで、数多くの町民各層との相互交流を実現すべきです。お互い、大きな夢とビジョンを持ちたいものです。

「内と外」(41)
 ご承知のように、日本は長い間、鎖国状態を続け、明治維新による開国以後は、それまでの攘夷(じょうい)思想から、「鹿鳴館時代」に象徴されるごとく舶来信仰が強くなりました。さらには、太平洋戦争時代の「鬼畜米英思想」が、敗戦後は、たちまちにして対米追従姿勢となる、といった具合に、日本人はドラスチック(激烈・猛烈)な変化に即座に対応できる(容易に変化できる?)柔軟性を有した国民性を内部体質として持っています。

 そうした中で、次第に日本人は「内(ウチ)と外(ソト)」とを明確に分ける思考体制が形成されてしまったのです。「内」に関しては、在日外国人や少数民族等への冷たい対応の仕方にそれが顕著に表れていますし、いっぽう「外」に対しては、セルフイメージ(自己像)の低い日本人が多くいます。すなわち「外国」と聞くだけで緊張してしまうそれです。ですから今回のように、実にスムーズにニュージーランドという「外国」と、美幌とが姉妹関係を結ぶことが可能となった(しかも相手側が美幌との提携を願った)ことに、さぞかし驚かれた人が数多くおられたのではないかと思われます。

 むろん、これにはこれまで述べてきたような要因がそこにあったからですが、それ以上に「ケンブリッジにとっても、美幌は外国なのだ!」と考えれば、事の理解は簡単です。ましてや車社会のこの国で、街を走っている車の大半が日本車(しかも新車の購入価格は年収の一年分)であり、日本製のコンピューターや電化製品はブランド商品で、なかなか手に入れることができない、等々の現実を日常的に体験しているこの国の人々にとって、日本は、少なくとも<経済的にはきわめて成功した憧れの国>、としてイメージされていると言っても決して過言ではありません。つまり、美幌の人たちにとっては、常に東京や札幌を中心とした日本全体の中で美幌がどういった位置づけか、といったことに対して非常に関心が強いのに対して、いっぽうケンブリッジにとっては、美幌は日本そのものなのです。これは海外で生活している日本人が、その人個人の言動を通して日本人全体をとらえられてしまう、といった体験をしばしばするのと共通しています。

 今、私の家には中国から移住してきた人が日本語を習いに来ています。またマオリの人も別の日に習いに来ています。国は違えども、人としての心はひとつなのです。

「交流のまなざし」(42)
 他国と深い交流関係を持つということは、言語や文化、それに習慣等の側面での相違点について相互受容のまなざしを持つべき必要があるということです。すなわち、お互いに自国の流儀(やり方)を主張し合っていては深い国際交流はできないということです。

 前回述べたように、長い鎖国時代を経験し、現在もなお意識の部分でそうした閉鎖的な側面を強く有している日本人の場合は、異なる文化や習慣、それに発想の違い等をゆとりをもって受け容れ、それを身につけるためには、相手国の情報に習熟しておくことは無論のこと、言動や物腰などといった点に関して、若干の練習(スパーリング)が必要です。

 さて、この国の人々は、おしゃべりがとても好きです。しかし若者を除いて、声高に話すことをあまり好みません。オフイスでも静かな会話が好まれます。ですから会話をする場合には、そうしたことに配慮すべき必要があります。また食事の際には、ワインを主としたアルコールを飲用することがよくありますが、日本のように「マアマア、一杯・・」などと言いながら人にお酒を勧めるようなことをしては絶対にいけません。むろん、酔って絡むような人は、即座に相手からの信頼を失います。

 喫煙に関しては以前にも触れましたが、この国では、とりわけ公共の建物内では絶対に喫煙をしてはなりません。ましてや人に向かって紫煙を吹き掛けるような動作をすれば、それだけで全ての関係を失うことになります。とにかく、これは欧米でもそうですが、この国でも喫煙の習慣を持つ人は、知性ある人として尊敬の対象とはなりませんので、くれぐれもご注意ください。整理をすると、「大声で品性のない会話をし、酒に酔い理性を失い、人前で喫煙をするような人はこの国では信頼されない。」ということです。細かなことで恐縮ですが、相手との信頼関係を築くには、意外とこうしたことが重要なのです。

 さらには、この国は世界有数の人権国家ですから、女性の地位も名実ともに男性と同じです(この国は女性への参政権を世界で最初に確立して、今年で百年目を迎えました)。したがって、女性に対する、いわゆる「セクシュアル・ハラスメント(セクハラ)」に関しては、厳しく糾弾(きゅうだん)されます。ちなみに、ケンブリッジ議会のアレン議長も女性、私が住むハミルトン市の市長も女性です。何も不思議なことではありません。


「肩のこらない国」(43)
 ニュージーランドはすぐれた多民族国家であるとともに、男女同権意識が非常に高い国です。女性の参政権も世界で最初に確立した国です。人口が少なく、また不況のせいで賃金が低く押さえられているといった関係もあるのですが、夫婦共働きはごく普通です。これは大学の教員とて例外ではありません。小学校などへ行ってもほとんどが女性で、男性教員は校長のみ、などといったケースはごく普通の光景です(もちろん女性校長もごく普通にみられます)。女性に対する「結婚退職」などといった発想は存在しません。

 それに対して、日本では雇用機会均等が建て前ですが、その実、多くの職場では女性の進出が不当に低く押さえられています。幸い、私自身はこれまで男女同権意識が比較的浸透している学校という職場で働いてきましたので、ニュージーランドのそうした姿にはあまり違和感がありませんでした。余談ですが、私が勤務している大学では「お茶は自分で入れよう!」といった標語がアチコチに張られています。笑い話のようですが、行政の管理職から転職してきたある教員が「大学教授になると秘書がついて、いつもお茶を入れてくれるとばかり思っていたのに・・」と笑いながら、慣れぬ手つきでお茶を入れてくれたことがありました。一方、この国の家庭では、食事の後片付けや食器洗いは、当然のことのように男性の役割です。職場でも、スタッフルームに自動給湯設備があり、各自それを利用して午前と午後にティータイムを持ちます。勿論、セルフサービスです。

 ワイカト大学のキャンパス内を見ていると、クツを履かずにハダシでペタペタと歩いている学生が実に多いことに驚かされます。教員とてネクタイをしめているのはホンのわずかで、男女ともジーンズ姿がごく普通の服装です。本当にこの国では気を使うことが少なくて実に快適です。それに何とも心地が良いのが、お互いをファーストネーム(名字ではなく名前)で呼び合うことです。私の共同研究者のデービッド・ミッチェル博士はこの国を代表するような国際的な研究者ですが、スタッフも学生も「デービッド」と親しく呼びかけます。彼が日本へ行ったときに「どうぞファーストネームで呼んでください」と言ったけれどダメだった、と苦笑混じりに話してくれたことがありました。当然、スタッフや友人たちは、私のことを「マサハル」と呼んでくれます。嬉しいかぎりです。

「温かさ、そして優しさ」(44)
 「天国に条件をつけるのも変ですが、あえてそれを、人、空気、食物、とすれば、確かにニュージーランド[といってもケンブリッヂしか知らないが]天国でしたよ。・・」(原文のまま)。これは私もファンの一人である「さだ まさし」のレコードジャケットに記されている文章の一部です。美幌との姉妹都市提携について尽力してくれているレダー議員が、先日「マサシもこのように言っていることを、ぜひ美幌の人たちへも知らせてほしい・・」と言いながら、私にそのレコードジャケットを渡してくれたのです。そこには彼女(レダー議員)の両親の家でくつろいでいるマサシの写真が写っていました。

 このレダーさんとサマシとは、もう10数年におよぶ親密な交流があり、彼女の息子さんは、マサシの関係で日本で英語教師として働いています。レダーさんは「マサシは良い人物だ・・」と言いながら、マサシとのこれまでの交友関係を、何枚かの写真を手に熱心に語ってくれました。そしてマサシの妹である佐田玲子のCDを私に貸してくれました。何と、それは市販される前の「見本盤」でした。それだけ家族ぐるみの親しい関係なのです。

 先日、ケンブリッジが含まれるワイパ地区のバークェスト首長から美幌町長へ宛てた、こころ温まる内容の親書を受け取りました。この親書を書いてもらったのは、悲しい(恥ずかしい)ことに、四月七日の「美幌との姉妹都市提携を決議した」とのケンブリッジ議会の議決書の受領連絡さえ、未だに美幌はケンブリッジ側に通知してくれていないためです。そうした我が愛する美幌の対応に苦しみ、悩む日々が今も続いています。この国の人々の仕事は実にスピーディです。仕事のスタートは朝の8時です。その時間にはデパートも開いています。これだけの広さで人口がわずかなこの国ですから、個人が有する決済権限も高く、それゆえいっそうスピーディに物事の処理が為されてゆきます。「日本の役所はアリのようなテンポで進むので、待っていてほしい・・」と、これまで何度お詫びの言葉を口にしたか分かりません。そんなとき、思わず涙が浮かんだこともありました。

 親書を受け取った後、ケンブリッジの美しい街並を歩きながら、今日もまたこの国の人々の限りなき温かさと優しさとに触れたことを想うとき、今度は逆にウレシ涙が溢れるのです。ケンブリッジも美幌と同じく、今や私の誇るべきふる里となりました。


「夢を現実のものに」(45)
 私が通っているケンブリッジのバプテスト教会で、先日、求めに応じて『日本人の宗教観について』と題して、一時間あまりのスピーチをさせていただきました。私がこのテーマを選んだのは、日本文化をより深く理解するには、年末年始の短期間にかけて展開される、クリスマス(キリスト教)、除夜の鐘(仏教)、そして初詣(神道)、といった三つの異なる宗教的行事をさほど抵抗なく受け入れてきている日本人の宗教に対する「ある種の寛容さ」(もしくは「曖昧さ」)を理解することが重要であると考えたからです。

 さて、その集会の後に、ある教会員が、静岡県の長泉町と姉妹都市関係を結んでいるワンガヌイという街へ行った際に、長泉町が現地に設置している『姉妹都市友好センター』のパンフレットをもらってきて、それを私に渡してくれました。ケンブリッジの新聞で美幌とのことが何度も取り上げられたせいか、美幌との姉妹都市提携の話を知っている人たちが次第に増えてきました。そのセンターには茶室もあります。さすが「茶どころ静岡県」です。「やがて美幌にも、そしてケンブリッジにも、それぞれの友好センターができるといいな・・」そのときフトそう思いました。またひとつ「夢」が増えました。

 また、その日の教会の礼拝に、たまたまネーピアからの訪問者たちが来ており、そこにネーピアの姉妹都市である苫小牧市から交換留学で派遣されてきている高校生がいました。ちなみに、ケンブリッジハイスクールの校長は優れた女性の校長ですが、美幌の高校との姉妹校提携の希望を表明しています。そしてこの夢は確実に実現が可能なのです。

 先日、ワイパ地区のバークェスト首長にお目にかかりました。「マサハル、よく来たね。紅茶を飲むか? ミルクは? 砂糖は? クッキーは?」と、この国では皆そうであるように自分でお茶を入れてくれながら、親しげに話しかけて下さいました。病み上がりのため、今は午前中のみの執務でありながら、つい話が弾んでしまい、フト気が付くと一時間以上も経ってしまいました。そして「この地区全体と、美幌周辺の町村とが友好関係を結べるといいね!」と、実に嬉しそうに語ってくれました。ワイパ地区のオフィスがあるテアワムツからケンブリッジまで二十キロほどあるのですが、その途中の風景は、まさに女満別から呼人へ向かう途中の風景と同じく、ウットリするほどの美しい眺めでした。


「天国にいちばん近い街」(46)
 私は今、この秋に二ヵ月間ほど滞在をする予定のデンマークとファクシミリによるやりとりで忙しくしています。間もなく南半球の端から、美幌を経由して、今度は北半球の端まで移動しようとしているのです。その理由は、今や地域における身近な福祉問題を的確にとらえるためには、常に地球(世界)規模で思考し、行動すべき必要があるからです。

 ご承知のように、北欧のデンマークはスウェーデンとともに『福祉大国』として知られています。それに対して、日本は俗に『経済大国』と称されます。そして福祉事業は本質的には経済効果を生み出さないがゆえに、並立は不可能です。よって、経済大国(もしくは競争主義大国)を誇っているわが日本は、決して福祉大国とはなり得ないのです。

 さて、もしも皆さんがケンブリッジの街を歩いていて、人と目があったときには、ほとんどの人がニッコリとほほ笑みを返してくれることに驚きを感じるに違いありません。正直、この国に住んでいると、日本にいるとき以上に不思議な安心感があります。試しにケンブリッジで誰かに道を尋ねてごらんになると、そのことが良く理解できます。もう本当に懸命になって教えてくれようとする筈です。「さだ まさし」の言葉ではないですが、ケンブリッジは地上天国です。人々の暮らしは質素ですが、表情にゆとりがあります。懐(なつ)かしさや、温かさがあります。すなわち、この国は『思いやり大国』なのです。

 あるとき、半年以上も使ったラジカセが故障して、修理に出したことがありました。しばらくしてお店にゆくと「自分たちでは修理ができないので、お金を返すから・・」と言って、購入した時の値段を聞き、疑うことなくその金額をそのまま返してくれたことがありました。最初は驚いたものでしたが、これに類した経験を数多く重ねてゆくうちに、「これが人間としての本来の在(あ)り方かもしれないナ・・」と思うようになりました。

 社会福祉の研究者である私は今、確信をもってお伝えできます。ケンブリッジは『天国にいちばん近い街』です。私はこの街の人々から義理人情を学びました。人としての真心(まごころ)や思いやり、そして優しさを学びました。日本にいたときには心がスリ切れるような激しい日常で、ストレスの固まりのような自分でしたが、この一年でスッカリと癒(いや)されました。ですから、どうか多くの町民の皆さんがこの街を訪れてください!


「感謝でいっぱいです」(47)
 思えば、今回のケンブリッジへの姉妹都市提携のアプローチの動機は単純でした。「自分はこの国が大好きだ。そのなかでもケンブリッジが最高だ。だから同じく最高の街である美幌とこの街とが仲良くなれたらどんなに素晴らしいことか・・」これが基本でした。

 ケンブリッジの関係者たちも「それほどこの街と、あなたのふるさと美幌を愛しているのか。それなら協力しよう・・」そう言って、次々と私の願いを聞き入れてくれたのです。その中でも、特に病気治療のためにこの12月で退職するゲイルさんの、病(やまい)を押しての美幌に対する涙ぐましいほどの誠実な仕事ぶりは特筆されるべきです。こうした名もなき人物の、純粋で誠実な取り組みこそが常に評価され、実を結ぶべきなのです。

 さて、私は福祉を生業(なりわい)としている者です。本来、人々に奉仕し、仕えるのが自分に与えられた使命です。「人に援助をしてあげるなどと考えてはならない。援助をさせていただきます、との謙遜(けんそん)な気持ちで福祉実践に携わるべきである。」このことは普段から授業等を通して、学生たちに繰り返し語り続けてきた、私自身の<福祉のまなざし>でもあります。ところが福祉現場から大学に移り、研究者としての仕事をしてゆくうちに、次々と本を出版させてもらい、またアチコチから講演依頼や執筆依頼等が来るようにもなり、次第に私自身が本来の使命を忘れかけ、高慢になりつつありました。

 私は最初、「ケンブリッジに関しては、相手が正式に議決し、外交手続きを踏んで正式提案をしてきている以上、町益を損なう話でない限り、執行機関である行政側が、議決機関である議会の承認を得て、時を置かずに調印をすれば良い。知性的な集団が理性的に判断をすればケンブリッジに関しては反対すべき理由などない筈であるし、それと同時平行で今後の交流の在り方をジックリと検討してゆけば良い。」と単純に考えていました。

 しかし事柄はそう簡単ではなく、その結果、私にとっては、まさに「身を引き裂かれるような」辛く悲しい日々が続きました。そんなとき、苦しさのあまり、つい「自分がこれほど懸命に努力をしているのに・・」といった高慢な想いが自分の心の中に沸き上がってくることがしばしばありました。しかし前述した<福祉のまなざし>が、高慢になりかかった自分をかろうじて支え切りました。感謝でいっぱいの経験をさせていただきました。


「やはり感謝でいっぱいです」(48)
 5月中旬に調査研究のため、ハミルトンから汽車に乗り、首都であるウェリントンへ行きました。ワイカト大学が私のために特別研究費を出してくれたためです。別に大学にお金を支払っているわけではないのに、私のために研究室を与えてくれ、コピーや電話は使い放題(もっとも、この国では市内電話の通話料金は無料ですが)、スタッフは皆、かぎりなく親切で、実に優れた研究者集団です。考え得(う)る最高の研究条件の日々でした。

 さて、この国の鉄道は、今や車や飛行機に押されて衰退気味です。しかし私は飛行機で一時間のウェリントンまでを、9時間かかって列車の旅に挑戦することにしたのです。座席に着くと、スグにお茶のサービスです。お昼には飛行機の機内食と同じような食事のサービス、それに午後のお茶のサービス、といった具合に、こころ温まるサービス(全て無料)でした。乗客たちもアチコチで古くからの知り合いのように語り合っています。

 素晴らしい風景を次々と窓の外に展開させつつ、トコトコと汽車は走ります。しかし次第に遅れ始めました。やがて車掌サンが車両に来て「遅れてスミマセン・・」と乗客に語りかけました。すると皆、口々に、それを北海道的に表現をしますと「なんもサ、気にすることなんて、ないっショ!」と笑いながら言うのです。実にほのぼのとした感じでした。

 さて、私の座席の反対側にオバアちゃんが乗っていました。そしてしきりと周囲に話しかけるのです。皆、その話に付き合います。食事のときにも手伝います。降りるときには女性の車掌サンがしばらく前から来て隣に座り、親しげに話しかけ、降りるのを手伝いました。そうした光景をみながら「この国はいいなあ!」と、心の底から思いました。

 私は在外研究の滞在先としてこの国を選びました。結果として、まさに「夢のような」一年間でした。「自分のように恵まれた在外研究を過ごした人はいたであろうか?」と思えるほどの満たされた日々でした。年が明けてからケンブリッジのことで急に忙しくなり、「愛する美幌への恩返し」とばかりに、研究活動を中断し、まさに寝食を忘れ、喜びをもって姉妹都市の交渉に没頭しました。その過程で、嬉し涙も、悲し涙もいっぱい流しました。役場の関係部署の人にも、国際交流推進委員会の人にも、美幌新聞の大庭氏にもご無理ばかりを申し上げ、本当にご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。

「メリーとマイケル」(49)
 この連載のタイトル(題名)が『羊の国から』といったことからもお分りのように、この国には猛獣がいないため、次第に飛ぶ機能が退化してしまった鳥である『キーゥイ』とともに、ニュージーランドの代名詞は『ヒツジ』です。ちなみに、この国にはどれだけのヒツジたちがいるかを調べてみますと、1990年現在で約5,800万頭という政府機関の統計が載っていました。これは国民一人あたり約17頭ということになります。そんなわけで、この国ではどこへ行ってもヒツジがいっぱいです。そこでこの連載を終えるにあたり、三回にわたって我が家のヒツジたちのことについて書いてみたいと思います。

 さて、幼い時に美幌の私の家ではヤギを飼っていました。そして私はそのお乳を飲んで育ちました。毎日、草のあるところに連れてゆくのが日課でした。懐かしい思い出です。そんなこともあって、せっかくの機会だからと、近くの酪農センターから生後まもなく母親が死んでしまった二頭の赤チャン羊(ベビー・ラム)をもらってきました。そしてメスを「メリー」、オスを「マイケル」と名づけました。マイケルはひ弱な感じで、寒さのためか、最初はブルブルと震えていました。それでしばらくは段ボール箱に入れて育てました。

 このメリーとマイケルとが家族に加わってからというもの、私にとっては、おそらくは赤チャンのいる家庭と同じようなサイクルでの生活が始まりました。すなわち、朝は夜明け前には鳴きだし、夜中もメ〜メ〜です。そのたびにヒツジ用のミルクづくりに大忙しです。いわば子育ての擬似体験です。しかし楽しさいっぱいで、まるで苦にはなりませんでした。そんなこんなで二ヵ月が過ぎました。それがこの写真です。ずいぶんと大きくなりました。私が庭でお茶を飲んでいると、必ず傍にやってきます。そして頭を撫(な)でてあげると、とても嬉しそうな表情をします。チチチという小鳥の声を身近で聞き、やわらかな日差(ひざ)しを受けながらユッタリとした気持ちで飲むティー(紅茶)は格別です。

 やがて成長するにつれ、家の庭の草だけでは足りなくなってきました。そこで大学のキャンパスに散歩に出かけることにしました。賢いもので、ちゃんと離れずについてきます。緑一色の広大なキャンパスは「美しい!」の一語で、夕焼けの下で黙々と草を食べ続けているメリーとマイケルを眺めながら、この国に来て良かったことを実感するのです。

「ごめんよ、マイケル!」(50)
 昨年の12月に、1ヵ月間の南島旅行に出かけるために、メリーとマイケルを知り合いの農家に預けることにしました。車の後に乗せられたメリーとマイケルはピクニック気分でご機嫌でした。しかし、やがて「それじゃ、またネ・・」と別れようとすると、気配を察したのか、もう鳴かれて、泣かれて・・ それは、それは大変でした。そのため、その翌日に心配になってソッとのぞきに行くと、素早く見つけられてしまい、柵を乗り越え、私のところへ猛スピードで飛び寄って来てしまいました。そして写真のようにグリグリと鼻をこすりつけ「置いてゆくな!」とばかりに、私から離れようとしないのです。そしてありったけの声でメ〜メ〜と鳴くのです。そこで頭を撫(な)でながら「ひと月したら必ず迎えに来るからネ・・」と繰り返し言い聞かせました。今度は何だか私の方が泣けてきました。

 さて、1ヵ月間に及ぶ南島旅行が終わり、さっそくメリーとマイケルを迎えに行きました。「はたして覚えているかしら?」と思いつつ、メリー&マイケル、と名前を呼ぶと、たくましく成長したわがヒツジたちは、それはそれは飛ぶようにして駆け寄ってきました。まさに感動の一瞬でした。ヒツジは本当に賢い動物です。おそらくは酪農に従事されておられる人にとっては、こうした出来事は日常的なのでしょう。

 嬉しさいっぱいで家に連れて帰りましたが、しばらくするとマイケルの様子がおかしいのです。グッタリとして草を食べようとはしないのです。ミルクもダメです。メリーは、とフト見ると、「しっかりして!」とばかりに、懸命にマイケルの体を舐(な)め続けているのです。一緒に育ってきた仲です。メリーの健気(けなげ)な姿に心を打たれました。

 そこで、ヒツジをもらってきた酪農センターに勤めていたマークさんに来てもらいました。スグに原因がわかりました。お尻の方に傷があり、そこに虫が卵を産み、それらの虫がマイケルの体を次第に蝕(むしば)んでいたのです。羊毛が8センチも伸びていたので、気づきませんでしたが、さすがにマークさんは素早くそれを見つけ、一時間あまりもかけて、汗だくになりながら虫を取り除いてくれました。何と、小さな虫が百匹以上はいました。たいていはそれに気づかず、やがてヒツジは死んでしまうのだそうです。危ないところでした。「痛かったかい、マイケル。ごめんよ!」と私は頭をさすりました。


「涙の別れ」(最終回)
 マイケルの病気のことがあって、少し時期が早いと思いましたが、毛刈り(シェアリングといいます)をすることにしました。そこで毛刈り職人に来てもらうことにしました。今回の写真がそれです。この毛刈り職人の手さばきは、まさに「神ワザ」で、わずか数分できれいに刈ってしまいます。ニュージーランドのこうした職人芸は世界一です。テ・クイチというところで行なわれたコンテストを見に行ったときには、声も出ませんでした。

 さて、いっぽう、アッという間に見事に毛を刈られてしまったメリーとマイケルは、バンビのようにカワイイ姿になってしまいました。また自分たち自身もバンビにでもなったかのように錯覚をしたのかどうかは分かりませんが、身が軽くなったので、嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねてアチコチを走り回りだしました。そして私がブラシで体を撫(な)でてあげると、実に気持ち良さそうな顔をして鼻をこすりつけてくるのです。

 さて、その半年後、またマイケルが、今度は泌尿器系統の病気にかかりました。さっそく動物病院に連れてゆきました。しかしどのアニマルドクター(獣医)も、口をそろえて「この子はもうダメだ・・」と言うのです。そこで私は「頑張れマイケル、ニュージーランドのヒツジは世界一なんだゾ!」と懸命に励ましながらマイケルの体を洗い、薬をつけ続けました。かわいそうで、涙があふれてしかたありませんでした。数週間後、「信じられない!」とドクターは口々に言いました。見事にマイケルが回復をしたのです!

 大学のキャンパスで草を食べさせていると、やはり散歩に来ている犬たちが猛然と走り寄ってきます。すると、いつも脱兎(だっと)のごとくに私の背後に隠れます。そんなとき、私は「そんな弱虫でどうする。もう親がいないんだから、これから頑張って生きてゆかなくてはならないんだゾ!」とコンコンとお説教をします。そんなあるとき、マイケルがいつものように近寄ってきた犬とジッとにらめっこをしました。やがて犬の方が去ってゆきました。マイケルは嬉しそうに私を振り返りました。「グッドボーイ、ウェルダン(ヨ〜シ、よくやった!)」と、私はマイケルの頭をグリグリと撫でてあげました。

 やがて帰国が近づいたある日、涙の別れとともにマイケルとメリーは友人の家に引き取られてゆきました。さようならメリーとマイケル。ありがとうニュージーランド! (完)

「ふるさとの風」
 私は今、この文章を北欧のデンマークで書いています。社会福祉国家として知られるこの国は、また童話作家であるアンデルセンや実存哲学者のキルケゴール、さらには北欧独特の教育制度である国民高等学校(教師と学生とが寝食を共にして学ぶ全寮制の成人学校)の創始者であるグルンドヴィ、といった世界的に著名な人物を輩出した国としても知られています。そして現在、私はコーリングという美しい街にある、その国民高等学校の一つに滞在をしながら、この国の社会福祉の実際について研究を行なっています(もっとも、この文章が掲載される頃には、二週間ほど中東のイスラエルを旅行する予定です)。

 さて、ニュージーランドから帰国し、ただちに美幌へと向かい、九日間あまり滞在しました。今回の帰町の主たる目的は、美幌との姉妹都市提携を決議したケンブリッジ議会の議決書、およびワイパ地区の首長とケンブリッジ議会の議長との署名がなされた、姉妹都市提携への正式な申し入れ文書の原本を美幌町役場へ直接届けるためでした。

 当初、私はこれまでのいきさつから、役場の関係者たちからはあまり歓迎をされないのではなかろうか、との強い杞憂(きゆう)の思いがありました。しかし幸いにしてご配慮をいただき、町議会議長や関係者たちが見守るなかで、町長に関係文書を直接手渡しをすることができ、これでようやく肩の荷が下りたようなホッとした気持ちになりました。

 美幌滞在中、私は可能なかぎり数多くの関係機関や関係者たちを訪問してケンブリッジとの交流をお願いしました。また、役場の関係者を交えた懇親会を、国際交流推進委員会の人たちが設定してくださり、感謝のひとときを過ごすことができました。さらにはロータリークラブからの依頼で、定例会でスピーチをさせていただき、本当に嬉しく思いました。また何よりも、これまで役場の対応に対する不満をかなりストレートにぶっけてきた企画調整課の宇津木課長、および上杉係長とは半日あまりも語り合う時間を持つことができ、関係部署としてこれまで姉妹都市提携実現のために尽力されてこられた経過をつぶさに知ることができ、これまでの非礼の数々を素直にお詫びすることができました。

 ふるさと美幌の風は、限りなく優しく、そしてとっても温かでした。「無理をしてでも美幌へ戻ってきて良かった!」心からそう思いました。ありがとうございました。

「デンマークにて」
 今回、二ヵ月間、いわば「ブラリ気ままな一人旅」の心境で、北欧・中東・英国をノンビリと旅行してきましたので、そのときの印象を簡単に報告してみたいと思います。

 私が1ヵ月間を過ごした北欧のデンマークは、スウェーデン、ノルウェーとともに福祉国家として知られ、日本から福祉研修と称する団体が数多く訪れる国です。たしかに高齢者福祉を始めとして福祉政策や制度の整備は高度に発達しています。しかしこれには「高福祉=高負担」がその基盤にあります。たとえばデンマークの場合、所得税率は約50%で、日本の消費税に相当する付加価値税は25%ですから、かなりの税負担率です。ホテルでも一万円以下の部屋にはバス・トイレがついていないところが普通です。要は、国民の多くが高福祉を享受するための高負担に同意をしている国であるということです。

 それに対して、日本人の多くは、高率の税負担は望まずに高福祉の享受を、と願っています。また「自分の身は自分で守る」といった傾向の強い米国は、国民皆保険制度の導入でさえ難しい現状です。さらには、かつては「揺りかごから墓場まで」と言われた英国は、深刻な不況で、福祉切り捨て政策が進んでいます。

 デンマークで一ヵ月間生活をしてみて驚いたことがいくつかあります。街並自体は、決して「福祉の街づくり」にはなってはいない、ということもその一つです。例えば信号です。目の見えない人のために青信号の際には音が出ることになっていますが、その音が非常に小さく、ほとんど聞き取れません。また信号が変わるのがとても早く、そのため向こう側には渡りきれません。事実、私は街角で目の見えない人が交差点を渡れない光景を何度も見かけました。また古い建物を大切にするといった関係から、段差が非常に多く、また道路も石畳です。しかも傾斜しているのです。これでは車イスでの移動は危険です。

 北欧の代名詞は高福祉と税金の高さ、それに性の解放と、自由ということです。街角でごく普通に繰り広げられる大胆な愛情表現や、数多くの未婚の母が乳母車を押している姿、少年少女たちがビール瓶片手に、くわえタバコで歩く姿などには、私自身はどうしてもなじむことができませんでした。余談ですが、スウェーデンやノルウェーのトイレは、ほとんとが有料です(英国も同じ)。さまざまなことを考えさせられた北欧滞在でした。


「イスラエルにて」
 9月13日に調印された『イスラエル・パレスチナ(PLO)暫定自治協定』の歴史的な調印式の模様を、私はイスラエルの首都であるエルサレムのホテルのテレビで食い入るように見つめていました。その日もエルサレムは35度を越える猛暑でした。

 ご承知のように、エルサレムはユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教それぞれの聖地であり、ユダヤ人とアラブ人とが共存している街でもあります。エルサレムは標高約八百bに位置し、そこから一時間ほどにある、今回の暫定自治協定の地域である「エリコ」や、沈まない海で有名な「死海」は、逆に海抜下250b、といった具合に起伏が激しく、また風土もかなり異なります。二週間の滞在中に私はエルサレムから世界最古の町と言われるこのエリコを通り、ヨルダンとの国境近くをバスで2時間あまり走り、ガリラヤ湖のあるテベリアまで旅行をしたことがありました。そしてその数日後、路線バスに揺られて地中海沿岸のハイファまでゆき、そこから汽車でテルアビブへと向かいました。

 テルアビブからエルサレムへと向かうオンボロ列車のなかでちょっとした事件が起こりました。横揺れが激しい二両編成の旧型の列車に10名ほどの乗客を乗せて、猛暑のなかをガタゴトと汽車は走り続けます。もう少しでエルサレムというところで、私の向こうの席に座っていた目つきの鋭い若者が、やおらバッグから軽機関銃を取り出し、素早く組み立て始めました。そして安全装置を外し、実弾を込め、立ち上がって窓の外を見つめ始たのです。私はひどく緊張しました。10分間あまり緊張が続いた後、若者は何事もなかったような顔つきで軽機関銃を解体して、再びバッグに入れました。後で聞くと、どうやら暫定自治合意の調印式を控え、各地でデモ等が起きていたための治安警備の兵士であったようです。軍服ではなく普通の服装だったので、私には理解ができなかったのです。

 この国では通常、女性は2年、男性は3年の兵役が課せられています。したがって、街には機関銃を持った若い兵士たちがあふれています。これが日常です。兵役に就いている、ある若い女性兵士は「軍隊は嫌いだけれど、国家が定めていることだからしかたない・・」と悲しそうな表情で私に語ってくれました。「シャローム」これはヘブライ語で「平安あれ」の意味です。「イスラエルにシャローム!」と心から願わずにはおれません。


「スコットランドにて」
 イスラエルからデンマークのコペンハーゲンに戻った翌日、今度は二週間の予定で英国へ向けて旅立ちました。ロンドンのヒュースロー空港で重いスーツケースを預け、リユックひとつの身軽なスタイルで「スタンバイ・チケット」という、空席があると乗れる安い航空券を買ってエジンバラ行きの飛行機に飛び乗りました。エジンバラ空港で「B&B」という英国独特の民宿を紹介してもらい一泊し、翌日、汽車でインヴァネスへと向かい、三日間滞在しました。私がインヴァネスを訪れたのは、今回、美幌へニュージーランドのケンブリッジを姉妹都市として紹介した責任上、以前より美幌が多くの町民を派遣し続けながら交流を願ってきているインヴァネスを是非とも見ておきたいと思ったからです。

 インヴァネスはこの地方(ハイランド)の中心地として知られ、歴史と伝統がある落ち着いた街です。またスコッチウィスキーの生産地としても知られています。そして、スコットランドではエジンバラが東京だとすると、インヴァネスは京都か札幌のような位置づけです。事実、街並も美しく、格調があります。ご承知のように、英国はイングランド、ウェールズ、北アイルランド、そしてスコットランドの連合国です。しかしスコットランドは独自の貨幣を発行している、といったことからもお分りのように、ロンドンを中心としたイングランドに対する反発心が強く、イングランドには全ての紙幣にエリザベス女王の肖像画が入っているのに対して、スコットランド紙幣にはまったく入っていません。

 さて、インヴァネスからネス湖に向かう道は美しく整えられており、爽やかな秋風を受けながら静かにネス湖にたたずむと、しぜんと心が落ち着きました。美幌からの子どもたちも寒風吹きすさぶ真冬ではなく、せめてこの時期に派遣をしてあげるといいのに、と思いました。厳寒の一月では荒涼とした風景のみであろうからです。そして考えてほしいのは、インヴァネスの街自体はネッシーに依存してはいない、ということです。おそらくはスコットランド人特有の自尊心がそれを許さないのだろうと思います。私も何人かの人たちにそのことを聞きましたが、皆そのことを認めていました。すなわち「我々はモンスター(ネッシー)人気に依存してはいない!」といったプライドです。もしも美幌がウィスキーの生産地であったならば格好の交流条件になったであろうに、と残念に思いました。