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イスラエル旅紀行

※以下の文章は、1993年8月初旬〜9月下旬の間、北欧のデンマークに滞在していた時に、「ステアリング・エアウェイ社」というチャーター便専門の航空会社が主催するイスラエル行きのチャーター便が取れたため、8月31日より9月14日まで、念願のイスラエルへ出掛けた時の旅紀行です。なお当時は「円高」の恩恵か、料金はチケットおよびホテル宿泊費込みで、約12万円ほどでした。


【8月31日(火)】
◇午前、コペンハーゲン中央駅の地下にある手荷物預かり所で重いスーツケースを預け(1日約400円)、リユックひとつの身軽なスタイルで、コペンハーゲンのカストロップ空港から「ボーイング727」という、今では日本では滅多にお目にかかれないような旧型の飛行機(それでも30年前は「夢のジェット機」と歌われたこともある飛行機でしたが)の狭い座席にビッシリと乗客を乗せて、イスラエルのベングリオン空港へと飛び立ちました。飛行時間は約4時間半でした。

◇ウワサに聞いていたように、イスラエルに着陸の際には乗客から盛大な拍手が沸き起こり、実に簡単な入国審査(後述しますが、その分、出国審査が大変でしたが)を経て外へ出ますと、そこは猛暑と喧騒でした。そこで「シェールート」と呼ばれる7人乗りの「乗り合いタクシー」をつかまえ、エルサレム市内へと向かいました。所要時間は1時間、料金は10US$でした。ホテルは「エルサレム・タワーホテル」という中級ランクのホテルでした。以下、イスラエル滞在中の行動を日記風に記してみたいと思います。

【9月1日(水)】
◇ホテルから徒歩約25分のところにある「ダマスカス門」近くのバスセンターから路線バス(エアコン無しの旧式バス)に激しく揺られながら、『オリーブ山』まで出掛けました。しかしその日は短パンを着用していたため、その付近にある記念教会等へ入ることができず、オリーブ山からテクテクと歩いて「シオン門」から「旧市街」へ入り、『嘆きの壁(西の壁)』で祈るユダヤ教徒の姿をジックリと見学しました。その後、喧騒の一言につきるような旧市街を通り抜けて「ヤッフォ門」からホテルへ戻りました。

【9月2日(木)】
◇昨日予約をしておいたエゲット社の「マサダ&死海ツアー」に参加しました。料金は52US$でした(この国ではシュケルという貨幣と同時に、アメリカンドルも通用するのです)。標高約800bに位置しているエルサレムから、海抜下350bに位置している『エリコ』(『誘惑の山』が壮大にそびえていました)を経由して、『死海写本』が発見された『クムラン洞窟』を過ぎ、約90分で『マサダの要塞』へ着きました。気温は軽く40度を越していました。私はそこで初めて、なぜ日本からの聖地旅行が7〜9月の期間に設定されていないのかが、ようやく理解できたのでした。それほど暑いのです。

◇台形のような形をした山の頂上(240b)にあるマサダの要塞は、紀元70年頃にエルサレムが陥落(マタイ・第24章のイエス様の預言を参照のこと)したときに、2年以上にわたってローマ軍に最後まで抵抗したユダヤ人たち約千人が、陥落前に全員自決して果てた要塞の遺跡です。現在でも、ここでイスラエル軍の入隊宣誓式が行なわれているのだそうです(遺跡まではロープウェイで5分ほどです)。

◇次に「沈まない海」として有名な『死海』へ行きました。ここは保養地としても知られ、沢山の観光客がいました。もちろん浮遊体験をしてきました。時間があれば、数日ここに滞在して、もっとユックリと浮遊をしていたいと思いました。私は記念に500og入りのミネラルウオーターのビンに死海の水を汲んできました。

【9月3日(金)】
◇今日も猛暑でしたが、ホテルから、今度は1時間ほど歩いて、再び『オリーブ山』へ行きました(炎天下のなか登るのはチョッピリ大変でした)。そこから『ゲデロンの谷』へくだる途中にある『昇天教会』『主の祈りの教会』『主の泣かれた教会』『万国民の教会(ゲッセマネの園)』を順次、時間をかけて見学し、オリーブ山と旧市街の壁の中間に位置しているゲデロンの谷をノンビリと歩き、『アブサロメの墓』等を眺めつつ、30分ほどでイエス様が目の見えない人を癒された記事(ヨハネ第9章)に記載されてある『シロアムの池』へ行きました。そこでは子どもたちがワーワーと叫びながら元気よく泳いでいました。その池をジックリと見学したかったのですが、何せ少しでも立ち止まると、どこからともなく人が寄ってきて「ジャパニーズ・ギブミー・マネー!」の連続ですから、ジックリと見学することはできませんでした(実際、ここでも「自分がガイドをしてあげる」という男が近寄ってきました)。その後、再び『嘆きの壁』を見学してホテルへ戻りました。

【9月4日(土)】
◇この日は「旧市街&ベッレヘム」の一日ツアーに参加しました(今日のガイドはハイスクールの教師でした)。まず最初に『スコープ山』から市内を眺望した後、旧市街のシオン門 の近くの『シオン山』にある『ダビデ王の墓』『最後の晩餐の部屋』『マリア永眠教会』を見学しました。

◇その後、バスで20分ほどで、ベッレヘムの『聖誕教会』へ着きました。ここはとにかく「土ぼこり」と「喧騒」の一言で、静かにイエス様のご生誕に想いを馳せることはできませんでした。その後、エルサレムへ戻り、再び『西(嘆き)の壁』『ビア・ドロローサ(イエス様が十字架を担いで歩かれた道)』『聖墳墓教会(イエス様が甦られた墓、および十字架に架けられた場所にある記念教会)』等を見学し、 ホテルへ戻りました。聖墳墓教会の内部は複雑で、また人々の出入りが激しく、ゴチャゴチャとしており、やはりここでも静かに想いを馳せることはできませんでした。

【9月5日(日)】
◇今日は聖日であったため、「ライオン門」の近くにあるアングリカン教会およびアラビック教会の二つで、それぞれ礼拝を守った後(時間帯が異なったため二つの礼拝に参加することができました)、人込みをかき分けながら再び『ビア・ドロローサ』を歩き、再び「聖墳墓教会」を見学した後、いったんホテルへ戻りました。

◇午後からは「ガリラヤ・ツアー社」が主催する半日ツアーで『クネセット(国会議事堂)』および『ヤッド・バシャム(ユダヤ人がナチスドイツによって迫害されたことを記念する『600万人ユダヤ人虐殺記念館』)』、そして『イスラエル博物館』を見学しました。近代的な建物のイスラエル博物館は、ロンドンの「大英博物館」よりもかなり小さな規模でしたが、落ち着いた雰囲気で、時間をかけて見学することができました。またヤッド・バシャムは「果たして、人間というものはここまで非道になれるものなのか?」との悲しい想いに包まれながらの1時間半の見学でした。「選民」としてのユダヤ民族の悲劇の歴史を深く知ることができました。

【9月6日(月)】
◇やはり「エゲット社」が主催する「テベリア湖一日ツアー」で『エリコ』を経由して『ナザレ』へと向かいました。ユダヤ人の老ガイドは、ナザレへ着くまでの2時間あまりずっとしゃべり続け、しきりと「イスラエルは平和を望んでいる」と、私たち8名の参加者たちに語り続けました。おそらくそれは、9月13日の「パレスチナ暫定自治合意調印式」を間近に控え、暫定自治合意地域の「エリコ」を通り、鉄条網で隔てられた、隣国ヨルダン国との、これも「暫定」国境ラインをバスが走っていたためかもしれません。

◇ベッレヘムと同様、「喧騒」の一言に尽きる「ナザレ」では『受胎告知教会』を見学し、その後、バスで30分の距離にあるガリラヤ湖畔の『カペナウム』へ向かい、イエス様がメッセージをされた『シナゴーク』を見学しました。その後、テベリアに向かい、ガリラヤ湖を遊覧船で遊覧しました。その日は比較的風が強く、聖書に記されている、荒れるガリラヤ湖の記事の様子がよく理解できました(マタイ・第8章23-27節、14章24節)。昼食は『セント・ピーターズ・フィッシュ』(ペテロがガリラヤ湖で漁をしていた魚と言われている)を食べました(この魚はエルサレムでも食べましたが、やはりガリラヤ湖の方がはるかにオイシク感じられました)。

◇ところで、私は当然のごとくに「祝福の山」にある『山上の垂訓教会』等を見学したい、とガイドに申し入れたのでしたが、見学ルートに入っていない、とのことでパスされてしまいました。何せユダヤ人ガイドですので、「ジーザス・クライスト」とは決して言わずに、ただ単に「ジーザス」とのみ発音します。したがって、説明でも歴史的な遺跡を案内するようなガイドとなるのです。そのため、シナゴークでも、オリーブ油を製造した遺跡の方により時間をとって説明をするような具合でした。

◇この日はエルサレムでホテルを予約しておいた、テベリア湖畔の「ヨルダン・リバーホテル」で宿泊(1泊が72US$)しました。ここは4っ星ホテルでしたので、非常に快適でした。窓からは美しいガリヤラ湖を眺めることができました。夕食は湖畔のレストランで、ガリラヤ湖の風にあたりながら、やはり「セントピーターズ・フィッシュ」を食べました。日中は非常に蒸し暑いテベリアですが、朝夕はとても涼しくて快適でした。

【9月7日(火)】
◇夜明け前にガリラヤ湖畔に出て、湖畔をわたる涼しい風に吹かれながら朝日が昇るさまを眺めました。しかし日中は今日も猛暑でした。昨日のツアーの帰路をキャンセルしてテベリアに留まったため、帰路に立ち寄ることになっていたヨルダン川を見学することができず、タクシーを予約して、イエス様が洗礼を受けられた『ヨルダン川』へ行き、そこの水を汲んできました。その後、やはりタクシーをチャーターして、昨日行くことができなかったカペナウムの『山上の垂訓教会』および『パンの奇跡の教会』へ行きました。特に山上の垂訓教会では、爽やかな風を受けつつ、美しいガリラヤ湖を眼下に見ながら、その爽やかな風に乗せて、イエス様のメッセージが多くの人々に届いたであろうことを確信することができ、本当に感謝でした。記念に小石を拾ってきました。

【9月8日(水)】
◇朝・テベリアのバスセンターから、路線バスに乗って地中海沿岸の『ハイファ』へと向かいました。そこで預言者エリヤが逃れたと伝えられている洞窟を炎天下のなかを、汗をポタポタと流しながら1時間半あまりもテクテクと探し回り、ようやくその付近まで辿り着いたのですが、そこで時間がなくなり、ハイファからテルアビブまでの列車に飛び乗りました。エアコン付きのなかなかステキな列車で、デンマークに1ヵ月いたときに、ユーレイルパスを利用して毎日のように乗っていた列車と同じタイプの車両だったので驚いていますと、そばにいた若者が「これはデンマークから輸入した車両だ」と教えてくれました。

◇その汽車を待つ短い間、やはり汽車を待っていた、兵役に就いているイスラエルの女性兵士と話をしました(この国では男性が3年、女性が2年間の兵役が課せられているのです。ですから、街中に銃を持った兵士たちが数多く歩いているのが日常なのです)。彼女は「軍隊は嫌いだ!」とハッキリと語りました。「でも国が決めたことだからしかたない・・」と彼女は悲しそうな表情を見せて語りました。

◇さて、1時間あまりでテルアビブに到着し、駅で1時間半待って、今度はエルサレム行きの列車に乗りました。この汽車は、私が今まで体験したなかでは最高に古い汽車でした。二両編成の汽車で、横揺れが激しく、乗客は合計10名ほどでした。ほとんどの人たちがテルアビブ=エルサレムの間をバス利用する理由がよく理解できました。

◇テルアビブを出発して1時間あまり経ったときでした。私の座席の向こう側に座っていた目つきの鋭い若者が、やおらバッグから軽機関銃を取り出し、組み立て始めました。私はひどく驚きました。若者は素早くそれを組み立て終わり、実弾を込め、安全装置を外すと、やおら立ち上がり、窓の外を鋭い眼差しで監視し始めました。事情の分からない私にとっても、まさに緊張の10分間でした。やがて若者は何事もなかったように再び素早く軽機関銃を解体し、バッグに入れました。あとでホテルの従業員の人たちにこの経験を伝えますと、エルサレム近くは現在、治安が悪く(おそらく「暫定自治合意」関連のためであろうと思われますが)、そのための警備の兵士ではないか、とのことでした。軍服を着ていれば理解もできましたが、ごく普通の服装です。緊張の体験でした。

【9月9日(木)】
◇ホテルから50分ほど歩いて『ゲッセマネの園』の近くにある『マグダラのマリア教会』へ行きました。この記念教会は、火曜と木曜の午前中しか見学できなかったからです。その後、『ダマスカス門』(聖書に書かれてあるごとく、今でも両替商が多い)の近くにある『ゴードンの園(園の墓)』と呼ばれる新市街にある静かな庭園へ行きました。この庭園は、イエス様が十字架に架かられたのは、実は旧市街の「聖墳墓教会」のある場所ではなく、ここが本当の『ゴルゴダの丘』であると主張されている場所です。

◇その後、『ライオン門』の近くにある『聖アンナ教会』と『ベテスダの池』へ行きました。そして今度は、そこから30分ほど歩き、主イエス様を三度も否み、ペテロが悔い改めを行なったことを記念する『鶏鳴教会』へと向かい、そこを見学しました。

【9月10日(金)】
◇今日は市内ツアーで、再び『クネセット』を外から見学し、その後、エルサレム郊外にある『キブツ』を見学しました。ホテルを経営している大規模のキブツでした。また帰路、ダイヤモンド・センターを見学しました。

【9月11日(土)】
◇朝から発熱していて体がフラフラしていましたが、どうしても『鶏鳴教会』の地下牢獄を見学したかったため、ホテルから徒歩で40分のところにある『鶏鳴教会』を再び訪れ、当時の地下牢獄を時間をかけてユックリと見学しました。主イエス様が十字架にお架かりになられたときには全員逃げ出してしまった弟子たちが、その後、投獄され迫害を受けながらも命をかけて懸命に伝えようとしたものは何であったのか、ということを、この岩をくりぬいた牢獄に佇(たたず)みながら静かに思い返しました。それは何よりも、弟子たちが主イエス様のご復活の「事実」を体験したからに違いない、と私は確信することができました。この牢獄での体験が、私にとってはイスラエル旅行の最大の収穫でした。

【9月12日(日)】
◇今日は聖日であったため、「アングリカン教会」、および「アメリカン教会」で礼拝を守った後、『ビア・ドロローサ』の出発点近くにある『鞭打ちの教会』および『ヤッファの教会』を見学しました。その後、『岩のドーム(モスク)』を見学しました。参考のために、金曜日に行なわれるイスラム教徒の礼拝を見学したいと思い、金曜日に別々の入り口から何度かアタックしましたが、何れも入り口でシャットアウトされてしまいました。外国人の場合、「コーラン」を所持していることがその証拠となるのだそうです。そこで、この日に見学することになったのです。その後、タクシーで『クムラン洞窟』で発見された「死海文書」が展示されている『死海写本館』へ行き、時間をかけて見学しました。

【9月13日(月)】
◇入り口がわからず、捜し出すのにとても苦労しましたが、ようやくのことで、「ビア・ドロローサ」のそばにある『エッケホモ教会』を見つけ、そこの地下にあるローマ時代の道路と下水道を時間をかけて見学しました(余談ですが、見学料は3シュケルでしたが、「学生か?」と問うので、「教役者だ」と言うと、1シュケルにしてくれました)。その後、「ヤッファ門」近くにある『ダビデの塔』を見学し、旧市街と新市街を隔てる城壁に登りました。

◇その後ホテルに戻り、テレビをつけると、どのチャンネル(国内番組の他に、ヨルダンからの放送、エジプトからの放送が視聴できます)も「パレスチナ暫定自治合意調印式」の様子が映し出されていました。その夜は、街のアチコチで歓声があがっていました。

【9月14日(火)】
◇午前10時にホテルを出発し、来たときと同じように、「シェールート」を利用してベングリオン空港へと向かい、ウワサに聞く厳しい(というより、かなりくどい)出国前の「セキュリティー・チェック」で、三人の係員と40分間あまりも「面談」をした後、夜・デンマークのコペンハーゲンに戻ってきました。そしてその翌日、ロンドンへと向かったのでした。

◇ここで参考のために、その「面談」(決して詰問調ではないのですが)の一例を紹介しますと「ニュージーランドから日本を経由し、ロンドンからコペンハーゲンに来て、その後、チャーター便で来ました」と答えると、「それではロンドンからコペンハーゲンまでのチケットの半券を見せてください」「自分はコペンから来たので、そんなものはありません」「それはおかしいではないか?」「どうしてそんなチケットが必要なのか? ここはイスラエルなのだからロンドンからコペンのチケットは関係ないではないですか・・おそらくコペンで預けたスーツケースの中に入っていると思う」と私。「それではニュージーランドではどこにいたのですか?」等々といったやりとりが延々と続くのです。ときには「これはもう4度も説明した筈・・」と私が抗議することもありました。セキュリティ・チェックならば、徹底して荷物の検査やボディ・チェックをすれば済むのに、それは全くせずに、面談のみが延々と続くのです。正直、あまり意味がないのではないかと思いました。イスラエルへの個人旅行の場合は、これは避けては通れないことを覚えおかれるとよいと思います。因みに、ある日本からのビジネスマンは入国時に90分もかかったそうです。その時には、スーツケースの中身を全て調べられたそうです。

※今回、私はまったくの個人旅行であったため、全て自分で計画をたてる必要があり、その点、かなり不便でした。しかし逆に、ツアーでは味わえない面白い体験をすることもできましたし、また鶏鳴教会の地下牢獄のように、時間を気にせずにジックリと見学することもできました。さらには、可能なかぎり徒歩で動きましたので、街の様子を詳しく知ることができました。

 ガリラヤ地方と死海地方の風土がまったく異なること。果物や野菜が安価で、豊富に食べられること。アラブ人とユダヤ人とが共存していること。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教も共存していること等を肌で感じることができ、有意義な二週間の旅行でした。