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 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネによる福音書 12:24 新改訳聖書)

◇2011年3月11日に突如として生起した未曾有の大災害によって、被災当事者の方々はむろんのこと、多くの人びとが深刻な影響を受けました。住み慣れた場所で家族に囲まれて、といった平穏なる歩みが、あるいは限りなき未来が待ち受けていたであろう筈の幼き子どもたちまでもが、それまでの歩みや将来的な計画を、いともたやすく吹き飛ばされてしまったからです。「何歳で○○、何歳で・・」などといった人生設計の脆(もろ)さ、はかなさを嫌というほどに思い知らされ、人の歩みには標準や平均などといったものは存在しないのだ、ということを改めて知らされました。人間とは運命(さだめ)に、あらがうことのできない、まことに弱き存在であることも知らされました。

◇ある高齢者が大津波の恐怖におびえた体験を語ってくれたことがありました。「津波が押し寄せてきて家の中に閉じ込められてしまい、あと10p、海水が高かったら、もうダメだった。あの日は雪が降って、寒くて、寒くて・・。近くで爆発が起きて火が出たときには、もうダメかと思った。・・」これまで、どれほど多くの被災当事者のひとたちから、こうした恐怖や悲しみに満ちた言葉を聴いたことでしょう。悲しみの極限を体験した被災当事者のひとたちに語りかけるべき言葉を持たない私が唯一できることは、ただ静かに傍に寄り添いながら丁寧に聴き続けることだけでした。まだまだ全身全霊を傾けて聴いてはいない自分です。まことに至らない自分ながらも、仕え人(びと)としてさらに修練を重ねたい、そう思うのです。

◇短時間の内に、人も物も、そのすべてを失ってしまった人たちの物心両面における空白を、いかにして埋めるべきかに呆然とする日々の中で、私ができることは被災当事者さんからの要望に応じた、いくばくかの物資の提供と、悲しみに沈んでいるひとたちに全面受容のまなざしをもって静かに寄り添うことだけでした。その一つの働きが“愛の宅配便”と称する、お米の配布活動でした。お一人につき、2sのお米と共にお配りしている説明文書に『多くの人たちの温かな想いを、お米に託してお届けします!』と題して、次のように書きました。

 
このお米は、皆さまと共に苦楽を分かち合いたいと願う個々人や組織体からの尊い支援金によって購入したものです。「愛の宅配便」は、多くの方々から寄せられた「支え合い&分かち合い」の気持ちを「お米」に託してお届けしようとする無償活動であり、これまで3800s(すなわち、延べ人数で1900人分)のお米を被災当事者さんたちにお配りしてきました。したがって、このお米は「生活米」ではありません。皆さまのことを忘れていません、との気持ちを表した「支え合い(愛)」としてのお米なのです!

 皆、それぞれが自分たちの生活で精いっぱいの中、国外を含めて全国各地の皆さまが心を込めて支援金を献げてくださり、そうした尊いお支えによって、今回、皆さまにお配りするお米を購入することができました。また、パールライスさんも、卸値価格でお米を提供してくださり、毎回、大和町の精米工場からお米を運んできてくださいます。ほんとうにありがたいことと感謝しています。

 「愛の宅配便」は、お米を提供すること以上に、「お互いを思い遣る気持ち」をお届けしたいと願っています。なぜなら、ひとは互いに支え合うことによって心が豊かになり、悲しみを抱えつつも前向きに歩むことができると信じるからです。どうかこれからも、皆さまお一人おひとりと苦楽を分かち合いながら歩ませてください!


◇一昨日に滋賀県在住の方が支援金を振り込んでくださいました。その用紙に、次のようなメモが書かれてありました。「心を配る活動に私も少しばかり参加させてください。」また、昨日、岡山県在住の方から振り込まれた用紙には、「6月9日、孫と一緒に田植えが終わりました。秋にはおいしいお米が取れると思います。お米を送ってもいいですか?」そう綴られていました。決して忘れられてはいないことを知るのです。

◇マザー・テレサは、次のように述べています。

「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。・・貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。私たちが分かち合わないからです。・・私たちは知らなくてはなりません。ことばではなく、実際の行いのなかでどのように愛することができるのかを。」(『ほほえみ』女子パウロ会 1989年)

福島のこと
◇さて、仕事の関係で、これまで浪江町や飯舘村の保育園や幼稚園を何度か訪れてきました。訪れるたびに、「今でもこんな牧歌的で、のどかな地域があるのだなぁ・・」と羨ましく思ってきました。そうした地域が「見えざる恐怖」のために、今や壊滅状態なのです。実に気の毒です。

◇そうした個人的な思いもあり、かねてより浪江町や飯舘村の被災住民さんたちに関わりたい、との願いを持ち続けてきました。しかし、これまでは名取市や仙台市の被災住民さんたちへの支援活動に力を注いできたため、関わるゆとりがありませんでした。

◇3月に福島県の相馬市郊外にある仮設住宅に行きました。そこには1千戸あまりの大規模仮設住宅が広がっていました。ここで何を、どう展開すれば良いのか、まるでイメージがつかめませんでしたが、コツコツと訪ね歩くうちに、福島第1原発による放射能汚染からの避難者たちである浪江町と飯舘村の住民さんたち、さらには原発と大津波との複合被災地域である南相馬市の住民さんたちが生活する仮設住宅に辿り着くことができました。この地域の住民の皆さんは各地の自治体に分散して避難しておられるのです。

◇住民さんからお話を聴かせていただき、大津波でそのすべてを失った人たちの悲しみや苦しみとは異なる悲しみに触れました。ご自宅を含めて、目に見える風景はまったく変わってはいないのに、「見えざる恐怖」に追いやられるようにして集団避難を余儀なくされている、といった悲しみであり、苦しみだからです。ある住民さんが私に、「ずっと前に、村にダムができることになり、ダムの底に沈む集落の人たちが悲しそうに村を去って行ったが、今、自分自身が村に住めなくなってみてはじめて、その人たちの悲しみがよく分かってきた・・」そう寂しそうに語ってくれました。

◇「2年間、お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。これから毎月、必ず来ますから!」住民さんたちにそのように話し、『愛の宅配便』の目的を説明してお米をお配りすると、ある住民さんが「よくここまで来てくださった!」と、両手を合わせて何度もお礼を言うのです。お詫びをして、お礼を言うのは私の方なのに、です。

◇『Footprints(足跡)』と題された美しい詩があります。この英詩から、私たちが苦しみや困難に遭ったときには、それらを自らの内に抱え込むのではなく、信頼できるお方(愛なる神様)に委ねつつ歩むことの大切さを教えられるのです。

 
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」(マーガレット・F・パワーズ:松代恵美訳『あしあと』太平洋放送協会 1996年)

◇ある親しい住民さんがいました。「私は仙台空襲も経験した。そして何も悪いことはしてこなかった。それが、この歳になって、どうしてこんなひどい目に遭わなければならないのか?」私に向かって、そう切々と語ったことがありました。私は、ただ頷きつつ、黙して聴くだけでした。そして、この詩に綴られているように、すべての重荷を背負ってくださる主イエス様に委ねるのみでした。

◇カトリックのシスターである渡辺和子さんが著した本の中に『置かれた場所で咲きなさい』といった著書があります。「置かれた場所」とは自己受容を意味します。たとえそれが辛く厳しい状況であったとしても、私たちは「今、ここで」自分に対して与えられた状況(それを摂理と言っても良いのかもしれませんが)を静かに受け容れること、いや、より正確には受け容れる他はないのだと思うのです。

◇シスター渡辺は、次のように述べています。

 
輝くためには燃えないといけないし、燃えるためには、必ず痛み、苦しみがある。苦しいことの多い生命であったとしても、または短いいのちであったとしても、咲いたということに価値があるのである。短いにもかかわらず、苦しいことが多いにもかかわらず咲くのではなくて、短いからこそ、苦しいことが多いからこそ咲くのである。‥神の優しさは、試練を与えないことによって示されるのではなく、試練に耐える力を添えることによって示される。(『愛をこめて生きる』PHP研究所 1989年 121・14頁)

◇私個人が為し得ることは限りなく小さく、些細なことです。滴(しずく)のごとき、か細き働きしかできません。充分すぎるほどに分かってはいますが、それでも寄り添わせてもらいたいのです。まことに乏しき自分ですが、もしも必要とされ、あるいは託されることがあるのならば、悲しみに沈んでいる人たちと共に歩ませていただきたいのです。不安や悲しみに覆われている人の傍(そば)に静かに佇(たたず)ませていただきたいのです。なぜなら、弱き乏しき私自身こそが、日々、主イエス様に傍に佇んでいただきたいと願っているからです。

◇お祈りを献げましょう!
 恵み豊かなる愛なる神さま。今朝は、未曾有の大災害による大きな悲しみから学んだことがらについて、ささやかなお証をすることができましたことを感謝いたします。今なお、大きな悲しみや困難さを抱えておられる被災当事者の方々が数多くおられます。どうかそれらの被災者の方々に、慰めと平安とを、お与えくださいますように・・。また、こうした悲しみを、我が事として受けとめる心を私たちに備えてください。そして、心を込めて共に歩むまなざしを備えてくださいますように・・。このお祈りを、尊き主イエス・キリストのお名前を通して、お祈り申し上げます。ア〜メン!