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 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム −『遣わされた者』という意味− の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 [ヨハネによる福音書 第9章 1〜7節]

◇先日,私は盲導犬訓練センターを訪れました。ご承知のように,盲導犬は視覚に制約を有する当事者ご本人にとって,大切なパートナーです。ちなみに,2008年度1年間に育成された盲導犬の数は185頭で,2008年度末において,全国で1045頭の盲導犬が活躍しています。また,1998年の日本財団の調査によりますと,「今すぐ盲導犬を希望している人」は4700人あまり。また「今すぐではないが将来,盲導犬を希望する人」を含めると約7800人といった調査結果が報告されています。

◇さて,私はある幼子(おさなご)のことを思い出しています。当時,その女の子は5歳でした。「全盲のため,来年から親元を離れて,遠くの盲学校の寄宿舎に入らなくてはならないのです。私たちとしては地元の小学校への入学を希望したのですが・・。」その子の母親は悲しそうに私に語りました。つまりは,視覚に制約を有するがゆえに,地域の小学校への入学が認められずに,わずか6歳にして親元から遠く離れた場所で生活を余儀なくされる,ということです。みると,その子は野球帽のような大きな帽子をかぶっていました。さらには,長い前髪がその子の特徴ある眼球を覆っていました。母親なりの配慮だったのでしょう。

◇私は,その子を抱っこし,帽子を取り,前髪をかき上げて「めんこいねぇ!」そう言ってあげました。「めんこい?」その子は私に言いました。「そうだよ。カワイイってことだョ!」私はその子に言いました。すると,その子の母親が「うちの子は可愛いですか?」そう言いながら,ハラハラと涙を落としました。そんなことがありました。

◇さて,今朝,拝読をさせていただいた「ヨハネ福音書・第9章」に示されているこの記事は,「主イエス様による,視覚に制約状態を有する人への癒しの奇蹟」としてよく知られている箇所です。そして人がなにゆえに苦難や試練を負うのか,といった疑問に対する聖書的な答えとして,しばしばこの聖書箇所が用いられます。すなわち,聖書には「神さまによるお働きの結果,つまりは神の真理が,そこに啓示される機会である」と書かれてあるからです。ちなみに「ラビ」とは、「偉大な」という意味で,尊敬を表す呼びかけです。また,当時は「肉体の不幸は罪の報いである」との考え方がありました。

◇6節には「こう言ってから,イエスは地面につばをし,つばで土をこねて,その人の目にお塗りになった。」と記されてあります。古代では「つばき」は治癒能力があると信じられていたからです。そこで,主イエス様は,その当時に容認されていた方法を用いて奇蹟のわざを示そうとされたのです。

◇続いて7節には「そして,シロアム(遣わされた者という意味)の池に行って洗いなさい,と言われた。そこで,彼は行って洗い,目が見えるようになって,帰って来た。」と書かれてあります。ただ受動的に座して癒しを求めるのではなく,自ら積極的な行動を伴ってこそ,真の癒しが為されるということが,ここで示されています。ちなみに「シロアムの池」とは,イスラエルの都であるエルサレムにある池のことです。この池は,岩をくりぬいて他の泉から水の供給を受けていました。この池が「シロアム」,すなわち「遣わされた者」と名付けられたのは,その池の水が人工的に供給されていたためです。すなわち,シロアムの池とは,神さまから遣わされた主イエス様ご自身を象徴している,という意味でもあるのです。

◇ところで,この聖書の記事に関しては,私には忘れることのできない苦い思い出があります。それは,私が大学を卒業して,直ちに勤めた肢体不自由児養護学校(現在では特別支援学校と称しますが)での出来事です。

◇あるとき脳性麻痺状態の女子生徒の一人に,「あなたの体が不自由なのは,神さまの御業があなたに顕れたためなんだョ・・」と言いました。すると,18歳であったその女子生徒はキッとした厳しい顔で私を見つめ,「どうして神さまの御業がこの自分に顕れなければならないのですか? それよりも私はよく動く体が欲しいのです!」と私に向かって語ったのでした。こうした臨床現場に関わりを持ち始めたばかりの若い私はその言葉を聞いてひどくショックを受けてしまい,それ以後,このヨハネ福音書9章の記事を安易(安直)に語ることができなくなってしまったのでした。

◇当時の私は「恵みに導くために与えられる選びの試練」という,愛なる神さまのご配慮の深さについての理解が浅かったのです。すなわち,愛なる神さまは,特別なご計画やご配慮に基づいて,特定の人を選ばれて,試練や苦しみ,悲しみをお与えになられるのだ,といった深き摂理であり真理のことを,です。そして,私たちがそうした神様からの「選びの試練」の真の意味を見いだすとき,神さまから与えられた苦難や試練を前向きに,そして肯定的に受け容れ,希望を持って堪え忍ぶことができるのだと思うのです。

◇聖書には次のような御言葉が示されています。

『わたしたちは・・神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく,艱難をも喜んでいる。なぜなら,艱難は忍耐を生み出し,忍耐は練達を生み出し,練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして,希望は失望に終わることはない。』(ローマ人への手紙 5章2〜5節)協会訳聖書

『試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は,神を愛する者に約束された,いのちの冠を受けるからです。』(ヤコブの手紙 1章12節)


◇仮に愛チャンとしましょう。愛チャンという,当時6歳の重度状態の子どもがいました。愛チャンの母親はいつも,「この子は,私が母親だということを理解してくれてはいないのです・・」と寂しそうに私に語っていました。重度状態であるがために,認知能力が弱かったからです。

◇さて,私は毎日のように帰りのスクールバスを見送るのを常としていました。毎日おもいっきり手を振ってスクールバスを見送るのです。なぜなら,それがそのまま最期となってしまった子どももいたからでした。この愛チャンはキラキラ光るものが好きで,スクールバスのなかで,よく私の腕をペロペロと舐めながら私の腕時計を見つめていたものでした。時計が光に反射してキラキラしていたからでしょう。そんな子どもでした。

◇そんなある日のことでした。私が帰りのスクールバスの中に入ると,愛チャンの母親が,わが子に向かってこう語りかけている姿に偶然,出会ってしまいました。

◇愛チャンの母親は,愛する我が子に向かって,「愛,長生きして欲しいけれど,あなたはお母さんが死ぬ少し前に死んでね!」と静かに語りかけていたのです。誰もいないバスの中で,そんなことがありました。そして,それがまるで昨日のことのように鮮やかに思い出されてくるのです。それほど私にとっては衝撃的な出来事でした。そこには「自分が先に死んだら,この子はいったいどうなるのだろう?」といった気持ちがあったことは明らかだったからです。ひどい脱力感が私を襲ったのを覚えています。言葉を換えるならば,「私は,この子よりも,一日だけ長く生きたい!」との悲しみの言葉は,今なお,しばしば聞かれる言葉でもあるのです。

◇「当事者たちの,こうした悲しみや苦しみを少しでもやわらげ,その人が,その特性や状態を尊重され,その人らしく生きることができるようになること。そして当事者たちが安心して生活ができるような世の中をつくらなければならない!」「どんな状態の人も,生まれてきて本当に良かった,と心から思えるような社会状況を作りあげるために微力を尽くそう!」そのとき私自身の生きる姿勢,すなわち軸足がしっかりと定まったような気がするのです。

◇私たちは,当事者たちの辛さや悲しみを代わって担ってあげることはできません。私たちは,ただ静かに寄り添うことしかできない場合が多くあります。それでも,かぎりなき受容的・共感的理解のまなざしをもって静かに寄り添いつつ,悲しみを共有できることもあるのだと思うのです。

◇さて,ここで美しい詩をご紹介したいと思います。それは,マーガレット・パワーズさんによる『あしあと』という詩です。

 ある夜,わたしは夢を見た。わたしは,主とともに,なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に,これまでのわたしの人生が映し出された。

 どの光景にも,砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
 一つはわたしのあしあと,もう一つは主のあしあとであった。

 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは,砂の上のあしあとに目を留めた。
 そこには一つのあしあとしかなかった。
 わたしの人生でいちばんつらく,悲しい時だった。

 このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは,すべての道において,わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに,わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、あなたが,なぜ,わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

 主は,ささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
 あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや,苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

◇私たちが深い悲しみに沈んだ時には,この美しい詩を思い浮かべたいと思うのです。すなわち,私たちがもっとも辛く悲しい時には,愛なる神さまご自身が自分と共に歩んでくださるということを・・。神さまご自身が,私自身の辛さや悲しみを受けとめ,私を背負って歩んでくださるのだ,ということを・・。試練や悲しみには,必ずプラスの意味があるのだということを・・。

◇先ほどもご紹介をしましたが,聖書には,次のような神さまからのお約束の御言葉が示されています。

『そればかりではなく,患難さえも喜んでいます。それは,患難が忍耐を生み出し,忍耐が練られた品性を生み出し,練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(ローマ人への手紙 5章3・4節)

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから,あなたがたを,耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ,耐えられるように,試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』(コリント人への手紙第1 10章13節)

『試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は,神を愛する者に約束された,いのちの冠を受けるからです。』(ヤコブの手紙 1章12節)


◇さて,十字架の意味とは何でしょうか? それはマイナス思考の横線(−)に縦線(|)を引くことによってプラス(+)へと変化をすることを意味しています。

◇神さまは私たちを信頼してくださるがゆえに,私たちが「耐えうる範囲内」での試練や苦難,そして悲しみをお与えになられるのだと思うのです。したがって,私たちはそうした神さまの私たちに対するご信頼に,しっかりとお応えをしたいと思うのです。私たちに対して与えられた試練や悲しみには,必ずや神さまの深きご計画が秘められているのです。神さまの為されることには最善以下のことは決してないのです。そこには必ずプラスの意味があるのです。そう信じたいと思うのです。

◇私たちは,どんなに辛く厳しい状況下に置かれようとも,愛なる神さまが必ず良くしてくださることを信じつつ,日々の歩みを重ねたいと思うのです。

お祈りをささげましょう。

「恵み豊かなる,愛なる神さま。今朝の礼拝の時をありがとうございます。私たちの人生には,日々,数多くの困難や試練がおそってきます。しかし,神さま。あなたは私たち一人ひとりを信頼され,そうした試練や悲しみを立派に堪え忍ぶための充分な備えをしてくださいますから,ありがとうございます。私たちが,より良き仕え人(びと)となるための訓練として,神さまから与えられた試練や困難を前向きに受けとめながら歩むことができますように。今日ひとひの私たちの歩みを豊かにお導きくださいますように。この祈りを,我らの救い主である,尊き主イエス・キリスト様のお名前によって,信じてお祈りを申し上げます。ア〜メン」