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『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネによる福音書 12:24 新改訳聖書)



◇今から一年前の10月13日のことです。私は瀬戸内海に浮かぶ小さな島を訪れました。香川県の高松港からフェリーに乗り,20分あまりでその島に到着しました。その島には,ハンセン病からの回復者の方々が生活しておられる「国立療養所大島青松園」があります。

◇大島青松園は,島全体が入所者の方の生活の場となっており,そこには,売店・食堂・郵便局・公園・宗教施設・会館・外来者用宿泊施設などがあります。入所者は,単身用・夫婦用の「一般寮」や,「不自由者センター」,そして「病棟」で生活しています。現在は,入所者全員がハンセン病の基本治療を終了していますが,末梢神経障害を起因とする後遺症や,高齢化による各種疾病の治療や看護,介護が行われています。

◇さて,1907(明治40年)に,「放浪するハンセン病患者を隔離収容する」といった目的で作られた,露骨なまでの差別法である「癩予防ニ関スル件」(らい予防法)が制定されました。その差別法は,1996年に,ようやく廃止されるに至りましたが,この間,当事者ご本人たちは,偏見・差別に基づく,わが国政府の隔離政策によって,苦しみ,喘(あえ)ぎつつ,苦難の歩みを重ねてこられました。

◇熊本県に「国立療養所菊池恵楓園」という,ハンセン病からの回復者たちが生活しておられる療養所があります。その近くには,すでに閉鎖されてしまいましたが,ハンセン病患者のみを収容目的とした刑務所があります。徹底した隔離政策の歴史がそこにみられます。

◇今から6年前の,2003年の9月に,その菊池恵楓園で生活しておられる人たちに対する「ホテル宿泊拒否事件」が起こりました。熊本県の健康づくり推進課が「ふるさと訪問事業」で予約した菊池恵楓園の入所者の宿泊を,「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が承諾し,11月に熊本県が「菊池恵楓園入所者らが宿泊予定です」と黒川温泉ホテルに連絡をしました。その際に,ホテル側は「家族風呂も用意します」と返事をしたのです。しかし,その後,ホテルの総支配人から、本社(株式会社アイスター・東京)の判断で「他のお客さまに迷惑がかかるため,宿泊をお断りします」との電話が県庁にあり,熊本県の職員がアイスター本社を訪問して,知事名の文書による申し入れを行い,旅館業法違反になることを通告したのですが、広報室長はそれを拒否したのです。そしてアイスター側は,熊本県に対して「会社の判断としてお断りする。何と思われても構わない」という内容の回答をしたのです。そのため,菊池恵楓園の入所者自治会役員が「黒川温泉ホテル」を訪問して話し合いをしましたが,ホテル側は拒否姿勢を変えませんでした。

◇その結果,熊本市から100キロほど離れた,熊本県阿蘇郡の山間部に位置している黒川温泉にあったそのホテルは,菊池恵楓園の人々への謝罪を拒否したまま,やがて一方的に,そのホテルを廃業し,取り壊すに至ったのです。私は黒川温泉に行き,すでに更地となってしまったホテルの跡地を訪れたことがありました。かくのごとく,今なお,ハンセン病からの回復者たちへの偏見差別は続いているのです。

◇さて,1889年4月15日,ハワイのモロカイ島で,イエズス・マリアの聖心会の一人の神父が49歳で亡くなりました。その人物とは,モロカイの孤島で,神さまのため,そしてハンセン病患者のために愛の殉教を遂げたダミアン神父でした。

◇その生涯をハンセン病患者にささげたダミアン神父は,1840年1月3日にベルギーで生まれ,やがて修道会に入りました。1863年のことでした。当時,同じ修道会に所属していたダミアン神父の兄が宣教師としてハワイ王国へ赴くことになっていましたが,病に伏したため,彼は兄の代理としてハワイへ行くことを求め,5ヶ月間の航海の末に,1864年3月19日にハワイに到着しました。ダミアン神父が23歳の時でした。

◇その頃,ハンセン病はハワイ諸島に広がっていており,ハワイ諸島の人口の2%がその病気にかかっていました。そこでハワイ政府は,1865年にハンセン病が伝染するのを防ぐための「隔離法」という法律を制定しました。すなわち,ハンセン病の疑いのある者は必ず保健局に名乗り出させ,診断の結果,ハンセン病と認められたなら,隔離地へ速やかに送るという方法をとったのです。政府は孤島であるモロカイ島のカラウパパ半島の東側,カラワオを患者の隔離地とし,ハンセン病患者を人々から完全に隔離させてしまうことにしたのです。

◇こうして最初の患者グループ12人が家族と悲しい別れと共にモロカイへ送られたのは1866年1月のことでした。その年,140名ほどが,ホノルルから船で,そしてその沖合でボートに乗せられ,カラウパパに上陸したのでした。

◇1873年(明治6)年の5月に,ダミアン神父は自らが強く願い出て,ハンセン病患者とともにモロカイ島に渡りました。33歳のときでした。モロカイの地に到着したダミアン神父が最初に見たものは,粗末な小屋のようなところで何人もの患者が住んでいて,食物や薬もなく,地獄のような生活を送っているハンセン病患者の人々の姿でした。その中には小さな子どもたちの姿もありました。カトリック信者もいれば,プロテスタント信者もおり,またどの宗教にも属さない人々など,800名あまりの人々が苦しみの中で,何の希望もなく,死ぬのを待っていたのです。

◇ハンセン病患者たちは,毎日傷口を洗って包帯を取り替えなければなりません。しかし,そこには水の出る施設がなく,すぐに彼は水源地を探しはじめました。ダミアン神父の努力によって,約2ヶ月後に待望の水源地を見つけることができ,患者たちはきれいな水で患部を洗うことができるようになりました。

◇当初,モロカイ島への宣教はダミアン神父の後に,他の神父が交替で任命されるようになっていました。しかしハンセン病患者への支援に神さまの導きと召命を感じていたダミアン神父からの要請で,引き続きダミアン神父にモロカイ島で働く許可が与えられました。しかしダミアン神父に対して保健局は次のように厳命しました。「もしモロカイに永住するならば,一般社会へ復帰することはできない」と・・。すなわち,ホノルルへはもちろんのこと,隔離地以外のモロカイ島のどこへも行くことを禁じられてしまったのです。

◇ダミアン神父は,患者たちと触れ合うことを何も恐れませんでした。ダミアン神父がモロカイ島へ来るまで,医者は感染するのを恐れ,患者とは接触しませんでした。そのため,薬の受け渡しも直接ではなく,自分の家の前にあるポストの上に薬を置き,患者がやってきて薬をもらって帰るという方法をとっていました。

◇ダミアン神父の努力により,隔離施設が開かれてから医師も看護婦もほとんどいなかったモロカイ島に,ようやく常勤の医師がやって来るようになった1884年(明治17年)12月のある夜のことでした。ダミアン神父はお湯を沸かしたやかんを持ったとき,あやまって手を滑らせ,足の上に熱湯をこぼしてしまったのです。足は真っ赤になりましたが,感覚が全くないことに気がついたのです。彼はこのとき初めて,自分もハンセン病にかかっていることを知ったのでした。そして,その週の日曜日のミサの時に,「兄弟である皆さん!」ではなく,「私たちハンセン病患者は・・」と人々に語りかけたのです。すなわち,自らも当事者の一人として福音(神さまのお言葉)を語ることができたのです。

◇自分の生命が限られていることを知ったダミアン神父は,1日も早くこのモロカイにシスターたちが来て,患者たちの世話をし,また自分を助け,働いてくれる人が与えられるように祈っていましたが,1888年11月に,アメリカから何人かのシスターがやってくることになったのです。そして,シスターたちだけではなく,1人のアメリカ人男性も来ることになったのです。彼はダミアン神父が亡くなるまで,ダミアン神父の片腕となって献身的に働きました。

◇ダミアン神父がモロカイ島に着任してから16年後の,1889年(明治22)4月15日に,多くの司祭や患者たちに看取られ,ダミアン神父は49歳の短い生涯を神さまの手に静かに委ねたのでした。

◇さて,「マタイ福音書 26:6」には,
『さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき,一人の女が極めて高価な香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って近寄り,食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。』と記されてあります。

◇また,「マルコ福音書 14:3」には,同じく
『イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。』との記載があります。

◇まことに簡単な記載です。当時のハンセン病(新共同訳聖書では「重い皮膚病」)を取り巻く状況から考えたならば,もっと説明が書き加えられても良かったはずです。しかし聖書では,実に簡単な記載です。

◇主イエス様が,人々から激しく忌み嫌われていた病を有する人の家にいたことを,ごく通常の出来事のように記しているのは,何よりも重い皮膚病を患っている人が,人々から激しく忌み嫌われるような存在ではないのだ,ということを主イエス様ご自身が,ここで示そうとしておられるからです。

◇ここで「ヨハネ福音書 第9章1〜3節」を拝読したいと思います。

『さて,イエスは通りすがりに,生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。ラビ(先生),この人が生まれつき目が見えないのは,だれが罪を犯したからですか。本人ですか,それとも両親ですか。イエスはお答えになった。本人が罪を犯したからでも,両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである。』

◇「第3節」には,『神の業(わざ)がこの人に現れるためである』と述べられています。すなわち,目が見えない状態というのは,それをもって神さまの栄光を示すためである,というのです。これは素晴らしいまなざしです。「弱さは恵みである」ということなのです。否,むしろ,弱さを有するがゆえに,よりいっそう,神さまの栄光を顕すことができるのだ,と主イエス様は言われるのです。

◇ダミアン神父は,モロカイ島のハンセン病者たちの中に,こうした主イエス様の愛のまなざしを見ていたに違いのです。そして自らが当事者になったことによって,肉体的な苦しみの内に,さらにいっそう,神さまの深き愛を知るに至ったのではないかと私には思えるのです。お祈りをいたしましょう。

 恵み豊かなる愛なる神さま。今朝の礼拝を感謝いたします。モロカイ島で,自らがハンセン病に罹患しつつも,病を有する人々と共に生き続けたダミアン神父さまの歩みを通して,神さまの愛と,深きご計画とを学ぶことができましたことを感謝申し上げます。私たちもまた,日々の歩みの中で,数多くの試練や困難に出会いますが,そうした試練や困難を通して,私たちもまた,神さまの愛と深きご計画とを知ることができますように,私たち一人ひとりを強め,お守りくださいますよう・・。この学舎(まなびや)に集う,一人びとりの学生や教職員たちを,豊かに祝福し,恵みで満たしてくださいますよう・・。この祈りを,尊き,主イエスキリストの,お名前によって,信じてお祈りをいたします。ア〜メン!