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『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネによる福音書 12:24 新改訳聖書)


◇先日,北海道から,とても美味しい梨が届きました。私がサポートメンバーになっている惠泉塾で収穫された梨でした。

◇北海道の小樽市から,車で20分ほどのところに余市町があります。果樹栽培がさかんで,自然豊かな“北の大地”です。その余市町の中心部から,やはり車で20分ほどの丘陵地帯に,惠泉塾という,心の翼を休めている人たちを対象とした生活ホームがあります。そこでは,利用当事者と支援スタッフとを合わせて50名ほどが生活を共にしておられます。そうした利用当事者の中には,数組の牧師先生ご家族もおられます。それほどまでに,「人のたましい」に触れる働きは,辛くて厳しい,といったことなのかもしれません。そして,この梨は,そこで生活をしておられる人たちが惠泉塾の果樹園で育てたものです。私は今年の5月と9月に,この惠泉塾を訪問する機会を得ました。

◇この惠泉塾を主導しておられるのは水谷惠信牧師です。20年あまり,札幌市内の高等学校で国語の教師をしながら,同時にキリスト教会を建てあげ,牧会活動を行い,その後,神さまからの示し(召命)を得て,高校教師の職を辞して,家族共々,余市へと移り住んで惠泉塾を立ち上げられ,これまで10年あまりにわたって,こころ病む人々と生活を共にしてこられたのです。

◇水谷牧師は,惠泉塾を次のように表現しておられます。惠泉塾のホームページに掲載されている文章からピックアップしてご紹介したいと思います。

 
ここは〈人生の港〉です。外洋の荒波に疲れた船が、港に停泊してホッと一息つくように、旅装を解き、安定した大地を踏みしめ、傷ついた船を修理し燃料を補給し、旅の目的と最終ゴールを地図を開いてもう一度確かめ、明日の出航に備えるところです。たった一度のあなたの人生をどう生きたらよいのか、「聖書」を基にして一緒に考えるところです。頭の先で考えるのではなく、異なる個性と共に暮らす「生活訓練」や具体的な生活を支える「労働」を通して、地域社会の実際の諸問題の中に身を置きつつ"体で考え"、語り合い、生き方の"改善を図る"ところです。

 入塾する人は“生徒”ではなく、塾頭の水谷の家庭に迎える家族の一員ですから、入塾費や教育費、生活費などの経費はかかりません。ただし、私たちと一緒に働いていただきますが、それも“家庭教育”の一環ですから、当然、労賃は支払われません。塾生活をして感謝と喜びを味わった分だけ、教会に自由に献金し、神様に“お返し”して下さい。私たちは聖書の神様に養われて、皆様のお世話をする、という形で神様に仕えているのです。

神の活躍舞台
 心傷つき、病み、疲れ果てて癒されぬ人々が大勢います。みんな決まって誠実で生真面目で、汚(けが)れなき魂の人々ばかりです。現代医学の力及ばぬ領域に踏み迷って絶望の壁に向き合っているのです。精神科医でもなくカウンセラーでもない私たちに一体何ができるでしょうか。無力です。まったくの無力です。しかし、私たちが無力のどん底で神に叫ぶと、神は応えて下さいます。「人にはできないことも神にはできる。神には何でもできるからである。」と聖書が語っています。これが真実の言葉です。私たちは胸を張ってその証人であると言うことができます。私たちが自分の無力を自覚して神に一切を委ねる時、神は不思議を行い給うのです。神の貧者、霊的貧者になり切る時、私たちの人生が神の活躍舞台になるのです。

福音の実証現場
 主なる神は、福音の力を今も実証し続けておられます。牧者である塾頭の水谷が主から賜った使命は時代の罪の沈殿した吹きだまりに身をおいて、そこから神に執り成しの祈りを捧げることです。聖書の神は全能の神です。神との正しい関係に立ち帰る者には、溢れる恵みを与えて下さる御方です。神の実在を知らず、身勝手な生き方を推し進めて疲れ切った人をお迎えして、キリスト中心の生活に連れ戻し、悔い改めた特選の民として神の祭壇に捧げ直すのが牧者の聖なる任務なのです。余市の惠泉塾は、神の恵みに満ちています。生きた福音が語られ、心の奥底から迸(ほとばし)る祈りが捧げられ笑いに満ち感謝が溢れ、貧しくても不思議な平安が全生活を支配しています。この生活が、都会生活に馴染んだ人々に、久しく忘れていた人間としての大切なことを思い出させてくれるのです。余市で私たちと共に暮らす間に、みんな神の光に照らされて輝き、元気になっていきます。神様はどの人も輝く存在としてお造りになっていたのです。私たちが輝けないのは光から身を遠ざけて、自力で輝こうと努力しているからなのです。この世が教えてくれた常識をかなぐり捨て、永遠に変わらない神の言葉に忠実に従う、純朴で愚かな信徒の生涯を送り続けて、聖書の神が今も生きて働かれる《実在の神》であることを実証する意義を、私たちは新たな来客を迎えるたびに痛感しています。


◇さて,惠泉塾の特徴に,毎朝5時から2時間あまりにわたって行われている聖書の学びがあります。そのことについて,水谷師は次のように述べておられます。

 
参加者のほとんど全員が「聖書の学び」を「楽しい」と言います。初めて聖書に向き合う人でも数日のうちに聖書の面白さに引き込まれます。聖書は神(主体)が人間(客体)に語りかける書物だから、私たちは聖書を“神の側から”読みます。神の真意を汲み取るのです。神が私たちに何を願い期待し命じておられるのか、理解するのです。多くの信徒は読者の側から聖書を読みます。自分は神に何を期待でき、どんな恵みを約束されているのか、知りたいと思います。福音は人間にとって都合の良い助けでなければ意味がないと思い込んでいます。そして神を人の奴隷にしていることに自分でも気づきません。そんな「信仰」に神は応え給いません。私たちの祈りに、神がいつもこんなに鮮やかに応え給うのは、神を「天地万物の創造主なる神」として正当に遇しているからだと私たちは思っています。人間教育の土台は神を知ることにあるのです。

◇さらに「愛」について,次のように語っておられます。

 
聖書の「ルカによる福音書」10章にある善きサマリア人の例え話を読んで教えられることがあります。追いはぎに襲われて裸にされ、半殺しの目にあって路傍に放置された哀れな男を目にした2種類の人物が登場します。祭司とレビ人という宗教的特権階級と、サマリア人の旅人という当時、差別と軽蔑の対象であった一般庶民とです。前者はこの男を見ても避けて通り、助けようとしませんでした。後者はこの男を見ると憐れに思い、近寄って、我が身が男の血で汚れるのも厭(いと)わず傷口にオリーブ油と葡萄酒を注ぎ、包帯をしてあげて、自分の乗る驢馬(ろば)に乗せ旅の先を急ぐ事を断念して宿屋に連れて行って介抱し、翌日は宿屋の主人に金を渡して自分の代わりに介抱してあげてくれと頼み、不足分は帰りがけにお支払いしますと言った、というのです。なぜこんなに違う対応があり得るのでしょうか。なぜ特権階級は心を閉ざし、一般庶民は心を開いたのでしょうか。祭司やレビ人は律法を学んでおり、弱者を愛すべきことは頭で理解していたが、実生活では体験がなかったのです。庶民の上に立つばかりで奴隷のように仕えることはなかったのです。愛は仕える事だと知っていたのは貧しい庶民の方でした。何もかも不足していた彼らは助け合わずには生きていけなかったのです。弱いもの同士助け合う中で彼らは大切な真理を学んでいたと私は思います。つまり、愛は、受けるよりも与える側に幸が多いということなのです。隣人愛に一歩踏み出す時、上から神の愛が内に押し寄せて来て、その人自身を神の命に満たすのです。

・・・病んでいる人や悩んでいる人,苦しんでいる人や倒れている人を見ると,もう黙っていられません。それは,いわゆる同情とかではありません。「私は,あなたを生かすことができるのですよ」ということを伝えたいんです。「私の中にあふれているものがあなたを生かすことができます」と言わずにおれない思い,それが湧きあふれてきます。それが愛です。愛は義務ではありません。愛は,おのずから湧きあふれ,相手を生かす力です。とどめることが苦しい,そういう何かが,私たちのうちにこみ上げてくるんです。・・・(『手渡そう,子どもに生きる力』32頁)


◇このような愛のまなざしを有する惠泉塾は,愛なる神さまの御業がダイナミックに,そして具体的に働かれる聖地なのです。お祈りをいたしましょう。

 恵み豊かなる 愛なる神さま。今朝のチャペルを感謝します。今朝は,神さまから託された愛のわざなる惠泉塾の働きについて語らせていただいたことを感謝いたします。
 私たちが人の知恵ではなく,全知全能なる愛なる神さまのお智慧をいただき,それに忠実にお従いするとき,あなたはダイナミックな御業を成して下さいますからありがとうございます。
 どうか,この学舎(まなびや)をお護りください。この学舎に集うすべての教職員・学生たちのうえに,主なる神さまの平安と祝福とが豊かに注がれますように・・。
 この祈りを 尊き主イエス・キリスト様の お名前によって,信じてお祈りをいたします。ア〜メン!