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『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネによる福音書 12:24 新改訳聖書)
◇私が韓国を訪れる機会を得たのは,パク・ピョンドン先生が牧会をされている聖山教会を訪問するために訪韓したのが最初でした。釜山からバスで三時間半あまり走ったところにある順天の近くのハンセン病の村に数日間滞在したのでしたが、そこでの体験は,その後の私の歩みに大きな影響を与えてくれるものでした。

◇ハンセン病の人たちが居住しているその村は、集落から遠く離れた、海に囲まれた半島のような静かなところにあります。そして村の中心の丘の上には大きな教会堂が建てられております。それが聖山教会でした。韓国の多くの教会では毎朝、早天礼拝が熱心に守られておりますが、この教会もそうでした。毎朝、暗いうちから村中にスピーカーから讃美歌が流れ、その村に住むハンセン病(もしくは回復者)の人たちが,その讃美歌を頼りに静かな足どリで丘の上の教会へとやってくるのです。その数、二百名ほどでした。また水曜日の午後に行なわれる水曜礼拝には、その倍ほどの信徒(聖徒)の方々が集われておりました。

◇そんなある日のことでした。その教会を牧会しておられるパク先生が私に,「この人たちがハンセン病に躍ったのは、日本が占領統治していた時代に、朝鮮半島で取れた米や食料を奪い、その結果、人々が栄養不良になったためにこの病気に躍り易くなってしまったのです」と語られたのです。それを聞いた私は、もうどうにもならない程の激しいショックを受けたのでした。「知らなかった・・でも知らなかったでは済まされない・・」。その時私は、かろうじてそう思いました。ハンセン病は結核菌より伝染力の弱い菌です。よほどのことがない限り、そうたやす罹患するすることはないのです。日本による36年間に及ぶ植民地統治下当時の朝鮮半島に住む人たちの栄養状態はひどく悪く、そのため人びとの病気に対する抵抗力が弱くなり、加えて衛生状態が悪いためにハンセン病に感染する人が多くいたのでしょう。そこまでは考えたことがありませんでした。まさに足元をすくわれるかのような思いでした。

◇それは当時,私が勤務をしていた大学の学生たちを初めて,その村に連れて行った時のことでした。聖山教会の水曜礼拝で私がメッセージを語ることになりました。私は会衆の方々に「これでようやく皆様へのお約束を果たすことができました」とのべました。それは、最初の聖山教会への訪問の早天礼拝でメッセージの御用をさせていただいた際に,私は「日本へ帰ったら、今度は必ず学生たちを連れてきます!」と約束をしたからでした。聖山教会集う数百名の聖徒の皆さんは「アーメン、アーメン!」と力強く私に答えて下さいました。

◇さて、この村は韓国では聖地と呼ばれ,聖山教会から少し離れたところにある記念墓地を多くのクリスチャンたちが訪れます。その理由はこうです。

◇聖山教会の初代牧師先生は孫良源(ソン・ヤン・ウォン)先生でした。その村にはハンセン病を治療する愛養再活病院がありますが,聖山教会も当時は愛養園教会と称されていました。孫牧師はその教会に1938年に赴任をされ,ハンセン病で苦しむ人たちのために献身的に働かれました。その様子が,孫牧師の娘であるソン・ドンヒさんによる『わが父,孫良源』(いのちのことば社)の中で,次のように述べられております。(61頁)

◇孫牧師は日本による植民地下にあった当時,神社参拝問題で投獄され,1945年8月15日の祖国解放により釈放されて,再び愛養園教会へと戻りました。しかし,1948年10月に起こった麗水反乱事件という軍事反乱事件によって,孫先生の愛する二人の息子が反乱者たちによって捕らえられ,惨殺される,といった悲しい事件が起こりました。わずかに,25歳と19歳でした。

◇やがて一週間ほどでその反乱も治まり,その犯人が捕えられました。そして,その内の一人が死刑になるとのことを聞いた孫先生は,何と,愛するわが子を殺害した犯人の救出を願い出ました。しかも,その後,その犯人をご自分の養子とされたのでした。

◇愛する二人のご子息の葬儀の際に,孫先生は,次のような感謝の言葉をのべておられます。
(222頁)

◇孫先生の生涯が「愛の原子爆弾」と称されるゆえんです。

◇その後,1950年からは,あの悲惨な朝鮮戦争(韓国動乱)が始まりました。私自身も,これまで何度か軍事境界線である38度線近くまで行ったことがあります。北朝鮮側から掘り進められてきたと言われる「南侵第3トンネル」の坑道内部を実際に歩いて見学したりもしました。今年の夏は,マッカーサーによるインチョン上陸作戦で知られるインチョン上空から38度線近くを眺めることができました。私は重い気持ちに包まれながら,目をこらして眼下に広がる大地を眺め続けました。南北を分断する象徴のひとつがイムジン河(臨津江)です。その河の流れを見つめながら,かつての日本帝国主義による植民地支配や,朝鮮戦争等の,人間が犯してきた罪の愚かさを嘆くと共に,その結果として,理不尽なまでに祖国を分断されてしまった朝鮮半島の人びとの苦悩の歴史に深く想いを馳せたものでした。

◇分断以前は,北側の人びとの方が熱心なクリスチャンであったと言われています。一日も早く朝鮮半島の平和統一がなされ,共に主を誉め讃える日が実現できるように,心を込めて祈りたいと思うのです。

◇さて,1950年から始まった悲惨なまでの朝鮮戦争において,やがて釜山周辺地域まで攻めてきた北朝鮮の人民軍に捕えられた孫先生は,その後,激しい拷問が繰り返された後に,銃殺刑によって48歳の尊き命を奪われてしまったのでした。私は麗水の教会で,当時その教会で副牧師をされていた牧師先生にお目にかかる機会がありましたが,周りの人びとが,孫先生に,「先生,逃げて下さい!」と懇願を繰り返しても,孫先生は「わたし一人が危険を避けるために,ハンセン病の人たちを残して逃げるわけにはゆきません!」とおっしゃられたそうです。それは,共産軍は真っ先に牧師先生やクリスチャンたちを捕らえて惨殺を繰り返していたからでした。

◇私たちは,神さまの忠実なる聖徒であった孫良源先生の,こうした愛なる歩みの数々を,わが心の内にしっかりと刻み込みたいと思うのです。

 恵み豊かなる 愛なる神さま 今朝のチャペルを感謝いたします。私たちは今朝,神さまの忠実なるしもべであった ソン・ヤン・ウォン牧師先生が,その殉教の生涯を通して具体的に示して下さった愛のわざと,神さまへの忠実なる歩みを学ぶことができたことを感謝いたします。そして,私たちも皆,互いに仕え合い,支え合うことの大切さを教えられたことを感謝いたします。今日一日の,この学舎(まなびや)での歩みを祝福して下さいますよう・・。愛なる神さまからの豊かなる,おん恵みの数々を深くおぼえる,ひとひとなりますよう・・。
この祈りを,尊き主イエス・キリストの,お名前によって,信じてお祈りを申し上げます。