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 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書 第17章20〜21節 新共同訳聖書)

◇今年の4月から毎月、外部から献げられた活動資金を活用して、原発事故の被災者である、福島県の浪江町と飯舘村の住民さんたちが生活しておられる仮設住宅を訪れて、お茶を飲み、果物や、お団子や大福餅を食べながらの「お茶会」を行っています。住民さんたちの多くは、ご自宅にいつ戻ることができるのかが分からない状況の中で、先の見えない苦しさや不安を抱えながら不自由な生活を過ごしておられます。実に気の毒です。

◇その「お茶会」の時には“愛の宅配便”と称して、国内外の数多くの方々から献げられた支援金によって購入させていただいた、お一人2sの「お米」をお渡ししています。その際には『多くの人たちの温かな想いを、お米に託してお届けします!』と題された説明文書をお配りしていますが、そこには次のように書かれてあります。その一部を読みます。

□「愛の宅配便」は、国内外の多くの方々から献(ささ)げられた「支え合い&分かち合い」の気持ちを「お米」に託してお届けしようとする無償活動です。そして、これまで5,292s(延べ人数で2,646名分)のお米を、岩手県・宮城県・福島県の被災者の皆さまにお配りすることができました。したがって、このお米は単なる「生活米」ではありません。何よりも「皆さまのことを決して忘れてはいません!」との篤き想いを具現化した「支え愛」としてのお米なのです。

□「愛の宅配便」は、お米を提供すること以上に「お互いを思い遣(や)る気持ち」をお届けしたいと願っています。なぜなら、ひとは互いに支え合うことによって心が豊かになり、悲しみを抱えつつも、前向きに歩むことができると信じるからです。ささやかな働きですが、どうかこれからも、皆さまお一人、おひとりと苦楽を分かち合いながら歩ませてくださると感謝です!


◇今月4日に実施した、飯舘村の仮設住宅でのお茶会には43名が、そして浪江町の仮設住宅で開催したお茶会には15名の住民さんたちが参加をしてくださいました。こうして毎月、通っているうちに、次第に親しい住民さんたちも増えてきました。その中にはご病気の人や、ご高齢のために理解力が乏しくなってきた住民さんたちもおられます。そして、そうした住民さんを皆が温かく包み込んで支えています。住民さんたち同士が、皆で苦楽を分かち合っている、ほのぼのとした雰囲気をそこに感じて、心が和(なご)みます。

◇名取市の仮設住宅で実施してきたお茶会を加えると、これまで開催してきたお茶会も30回を超えました。私のお茶会は設定されたプログラムが、ほとんどありません。ユーチューブからCDにダビングした歌を3曲、みんなで唄うくらいです。くつろいだ雰囲気の中で自由に談笑をしながら、お茶やお菓子を食べる機会を提供しているだけです。私はその光景を受容的なまなざしで眺めているだけです。

◇今月のお茶会では、春日八郎の代表曲であった『別れの一本杉』を、みんなで唄いました。すると、ある住民さんがポロポロと涙を流しました。この歌の歌詞のごとくに、文字どおり「泣けた、泣けた。こらえきれずに泣けたっけ・・」でした。

◇お茶会が終わると、その住民さんが私のところにやって来て、「身内が津波で流されてしまって、こうした歌を唄うと、あぁ、みんなで一緒に唄いたいなぁ、と思って泣けてくるのです・・」そう悲しそうに話をしてくれました。こうした激しい悲しみが容易に癒えることはないのです。

◇ときおり「風化」という言葉を聞きます。「物資提供は被災者の自立心を阻む」と同じで、実に心ない言葉です。激しい悲しみを抱えている被災当事者の住民さんたちに継続的に関わっていると、風化などといった言葉が、いかに実体のない空虚な言葉であることがよくわかります。被災当事者の方々が有しておられる喪失感や激しい悲しみが、そんな簡単に忘れ去られることなどないのです。

◇さて、本日、示された聖書の言葉(御言葉)は『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』という主イエス様からの、希望に満ちた力強いお言葉です。その箇所をもう一度、拝読させていただきます。(省略)

◇「先取り信仰」という表現があります。それは次の聖書の箇所に示されています。「ヘブライ人への手紙」第11章の1節を拝読します。

『信仰とは、望んでいた事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』

◇『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』との主イエス様からの「先取り信仰」のお約束を実現するために大切なことのひとつは、私たちがお互いの苦楽を分かち合うことです。マザー・テレサは、次のように述べています。

「自分たちの今していることは、大海の一滴にすぎないと思っています。けれど、もしその一滴がなかったら、大海もその一滴のぶんだけ少なくなってしまうでしょう。ものごとを大規模にやるという方法に、わたしは不賛成です。わたしたちにとって大切なのは、ひとりひとりです。」(『マザー・テレサのことば』女子パウロ会 1876年)

「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。・・貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。私たちが分かち合わないからです。・・私たちは知らなくてはなりません。ことばではなく、実際の行いのなかでどのように愛することができるのかを。」(マザー・テレサ 『ほほえみ』女子パウロ会 1989年)


◇今年の10月1日に、横浜市緑区のJR横浜線踏切内で、高齢の男性を助けようとして自らは電車にはねられて死亡した村田奈津恵さんという女性がおられました。彼女が示してくれた尊い犠牲の死は、私たちに人としての大切なまなざしを伝えてくれました。それは「愛による分かち合いのまなざし」です。こうした村田さんの尊き犠牲の出来事を通して、私は「マタイによる福音書」の第5章から始まる、主イエス様が語られた「山上の説教」を思い出すに至りました。その御言葉を拝読してみたいと思います。

心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。


◇私たちが為し得ることは、わずかなことかもしれません。限りなく小さく、些細なことかもしれません。滴(しずく)のごとき、か細き働きしかできないかもしれません。それでも、できる範囲で、お互いの苦楽を分かち合いたいと思うのです。悲しみに沈んでいる人たちに寄り添い、共に歩ませていただきたいと思うのです。不安や悲しみに覆われている人の傍(そば)に静かに佇(たたず)ませていただきたいと思うのです。

〇お祈りを献げましょう!   恵み豊かなる愛なる神さま。今朝は福島での働きを通して学んだことがらについて、ささやかなお証をすることができたことを感謝いたします。今回の未曾有の大災害によって、大きな悲しみや困難さを抱えておられる被災当事者の方々が数多くおられます。また本学の関係者たちの中にも、直接的・間接的な被災者がおられます。愛なる神さま。どうか悲しみに沈んでいる人たちに、慰めと平安とを、お与えくださいますように。また、こうした悲しみを、我が事として受けとめることのできるまなざしと、心を込めて共に歩むまなざしとを備えてくださいますように。このお祈りを、尊き主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りを申し上げます。ア〜メン!
※今回のチャペルに出席していた学生たちは、6月とは異なる学科の学生たちであったため、2013年6月13日の内容と重複して語ったところがあります。